南宋の建国
金との勢力争いと紹興の和議
主戦派・岳飛と和議派・秦檜(イメージ)
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和議では、淮河と大散関を境界線とし、南宋が金に対して臣下の礼をとって毎年、銀25万両と絹25万匹を歳幣として贈ることが定められた(紹興の和議)。この和議によって南宋と金の間に長期的な勢力均衡が成立し、以後、南北の対峙は約100年続くことになる。
周辺諸国への影響
博多で栄えた日宋貿易(イメージ)
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陸のシルクロードが金の支配下に入ったため、南宋は東シナ海・南シナ海を通る海上交易網(海のシルクロード)を大きく発展させた。とくに日宋貿易では、平清盛ら平氏政権が博多や大輪田泊(現在の神戸港)を整備して瀬戸内海航路を掌握し、貿易の利益で栄華をきわめた。宋銭の大量流入は日本の貨幣経済の発展を促した。
高麗もまた南宋との交易・文化交流を活発化させた。一方、金が南宋との国境維持に力を割いたことで、モンゴル高原の遊牧諸部族への統制がゆるみ、これがのちのモンゴル帝国台頭の一因になったとされる。
後世への影響
流通した紙幣・会子(イメージ)
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南宋の豊かな経済力と巧みな防衛戦術は、モンゴル帝国(元)の南進を長期間にわたって阻んだ。しかし1279年(弘安2年)、崖山の戦いで敗れ、幼帝とともに多くの重臣が入水して南宋は滅亡し、中国全土は元に統一された。
この時代の世界
(この項おわり)

南宋では対金政策をめぐって議論が起こったが、和平派が勝利して、多額の貢納と引き替えに和約が結ばれた。
また、朱熹が儒学を整理し、朱子学を創始する。
朱子学は「万物の根源は理と気にある」という世界観のもと、四書(「大学」「中庸」「論語」「孟子」)を重視した。朱子学は鎌倉時代の日本に伝わり、武士に受け入れられ、江戸時代には幕府の正式な学問となる。
朱熹は科挙官僚だったが、仕事を嫌い、名目上の職について学問に没頭することを望んだ。
たいへん身勝手な男で、学説と行動は必ずしも一致しないものである。
なお、北宋滅亡に先だって、契丹族の遼も滅んでいる。
遼の皇族だった耶律大石は、西へ逃れて西遼を建て、セルジューク朝を破って、中央アジアに覇権を築いた。