西暦1428年 - 正長の土一揆

土民が起こした初めての一揆

死に場 (1428) 求めた、正長の土一揆

正長の土一揆碑文
近江(現在の滋賀県)の馬借の蜂起を契機に正長の土一揆 (せいちょうのどいっき) が起きる。土民(その土地に住んでいる人々)が起こした初めての一揆で、徳政(借金の帳消し)を求めた。
一揆は京都、奈良にも及び、幕府は制圧に乗り出した。
この一揆の特徴は、幕府の許可を待たず私徳政を強行した点である。一揆勢は酒屋や土倉、寺院を襲い、借金の証文を力ずくで破棄した。蜂起の先鋒となったのは近江坂本・大津の馬借で、各地の惣村と連携しながら一揆は9月に京都市中へ拡大し、11月には奈良や河内、播磨など畿内近国にも波及した。
結局、幕府は徳政令を出さなかったものの、借金の証文が破棄されたり、守護や寺社が地域ごとの徳政を認めたことで沈静化へ向かった。

目次

飢饉と疫病、そして借金

15世紀初めの近畿地方は、たびたび凶作に見舞われていた。1420年(応永27年)から翌1421年(応永28年)にかけては異常気象による大飢饉が起こり、1428年(応永35年)にも飢饉と、三日病(みっかやみ)と呼ばれた疫病が流行した。米などの農産物の値段は上がったが、農民の手もとに銭はない。

そこで人々が頼ったのが、土倉 (どそう) 酒屋である。土倉は品物を質にとって銭を貸す金融業者、酒屋は酒を造って売るかたわら金貸しも営んだ店で、いずれも高い利息をとった。借りては返せず、質に入れた田畑や農具、衣類を取り上げられる者が相次ぎ、村の暮らしは行きづまっていった。

代始めの徳政への期待

1428年(応永35年)1月18日、4代将軍の足利義持が、後継者を指名しないまま死去した。5代将軍の足利義量はすでに1425年(応永32年)に19歳で亡くなっており、義持がそのまま政務をみていたため、幕府は指導者を失うことになった。

後継者は義持の弟たちの中からくじで選ぶことになり、1月17日に石清水八幡宮でくじが引かれ、義持の死後に開封された。選ばれたのは青蓮院 (しょうれんいん) の僧であった義円で、3月12日に還俗して足利義教と名乗る。ただし正式な将軍宣下 (しょうぐんせんげ) は翌1429年(正長2年)3月15日であり、一揆が起きた時点では将軍の座は空いたままだった。

さらに7月20日には称光天皇が崩御し、後花園天皇践祚 (せんそ) した。将軍と天皇の代替わりが同じ年に重なったことになる。当時は、支配者が代替わりするときには借金が帳消しになるという代始めの徳政の観念が広く共有されていた。世の中が改まるのだから貸し借りも改まるはずだ、という考え方である。

先頭に立った馬借

米俵を積んだ馬を引く馬借
馬借は琵琶湖と京都を結ぶ運送業者だった
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最初に立ち上がったのは、近江国坂本や大津の馬借 (ばしゃく) だった。馬借は、馬の背に米や年貢、商品を積んで運ぶ運送業者である。琵琶湖の水運と京都を結ぶ坂本・大津のほか、山城の淀・山崎・木津、越前の敦賀など、水路と陸路が接する場所に集まって住んでいた。
坂本の馬借は延暦寺(山門)に従属して荷を運んでいた。街道を行き来する仕事がら、遠く離れた土地の様子をいち早く知ることができ、仲間どうしの結びつきも強い。この情報力と組織力が、一揆をたちまち広い範囲へ広げる原動力になった。馬借はこののちも、たびたび土一揆の先鋒となっている。

村がまとまる――惣村

惣村の寄合
村の掟は農民自身の寄合で決められた
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一揆を支えたもう一つの力が、惣村 (そうそん) である。惣村とは、村の農民が寄合 (よりあい) を開いて自分たちで掟を定め、用水や山林の管理から年貢の納入までまとめて引き受ける自治的な村のことで、鎌倉時代後期から近畿地方を中心に発達した。
惣村では、有力な農民である地侍 (じざむらい) が中心となり、村を守るための武力も備えていた。村がまとまれば、隣の村と交渉したり、連合して領主に要求を突きつけたりすることもできる。正長の土一揆は、こうした村々のつながりを通じて畿内一帯へ波及していった。

一揆の経過

一揆の広がりを、当時の日記や記録からたどると次のようになる。日付は当時使われていた暦(旧暦)による。
年月日 出来事
1428年1月18日 4代将軍足利義持が後継者を指名せずに死去する。くじで弟の義円(のちの足利義教)が選ばれる
1428年7月20日 称光天皇が崩御し、後花園天皇が践祚する
1428年8月 近江国で徳政を求める蜂起が起こる。坂本・大津の馬借が先頭に立ち、「山上山下一国平均御徳政」が行われる
1428年9月18日 京都南郊の醍醐で「地下人」が徳政を号して蜂起し、方々の借用証文が焼き捨てられる
1428年9月 一揆勢が京都市中に乱入する
1428年9月28日 京都で土一揆が再び蜂起する
1428年11月2日 近江の馬借が下京に攻め入って債務を破棄する。一揆勢が奈良に入る
1428年11月6日 播磨国の東寺領矢野荘で一揆が起こり、播磨国中に波及する
1428年11月19日 播磨の一揆が最高潮に達する
1428年11月25日 興福寺が7か条の徳政条法を発する
1429年正月~2月 播磨国で再び大規模な一揆(播磨の国一揆)が起こり、守護赤松満祐に鎮圧される

幕府は徳政令を出さなかった

一揆が京都に乱入したとき、幕府の政務を統括していたのは管領 (かんれい) 畠山満家である。興福寺大乗院の門跡尋尊が編んだ『大乗院日記目録』は、この一揆を次のように記している。

「正長元年九月 日、一天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋、土倉、寺院等を破却せしめ、雑物等 (ほしいまま) にこれを取り、借銭等 (ことごと) くこれを破る。管領これを成敗す。凡そ亡国の基、これに過ぐべからず。日本開白以来、土民蜂起是れ初めなり」

幕府は鎮圧には動いたが、正式な徳政令を出すことはなかった。理由の一つは幕府の財政である。室町幕府は1393年(明徳2年)に土倉を直接の支配下に置き、土倉役酒屋役という営業税を課していた。15世紀半ばの土倉役は月に200貫文前後と推定され、土地からの収入が乏しい幕府にとって重要な財源だった。徳政令を出すことは、自分の財源を痛めることを意味したのである。

実力で勝ち取った私徳政

借用証文を焼く一揆勢
証文を焼けば借金は事実上消えた
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幕府が動かないなか、一揆勢は自分たちの手で借金を消した。公権力の徳政令によらず、実力で債務を破棄することを私徳政 (してくせい) という。一揆勢は酒屋・土倉・寺院を襲って借用証文を焼き捨て、質に入れていた品物を取り返した。
さらに、地域ごとには支配する側が徳政を認めている。近江国では「山上山下一国平均御徳政」が行われ、大和国では11月25日に興福寺が7か条の徳政条法を発した。そこでは、元の額の3分の1を払えば質物を取り戻せること、5年より前の借用証文を破棄することなどが定められている。

河内国では売却から21年以内の土地の返却と、借銭・出挙 (すいこ) の破棄が実現し、播磨国でも売買から21年に満たない田畠は本主に返すこととされた。幕府としての徳政令は出なかったが、畿内の広い範囲で、実質的に徳政が行われたのと同じ状態になったのである。

柳生の徳政碑文

この一揆の成果を今に伝えるのが、正長元年柳生徳政碑(奈良県奈良市柳生町951)である。旧奈良街道に面した花崗岩に地蔵菩薩像が彫られており、疱瘡地蔵 (ほうそうじぞう) と呼ばれてきた。その脇に、3行半27文字の柳生の徳政碑文が刻まれている。

「正長元年ヨリ/サキ者カンヘ四カン/カウニヲ井メアル/ヘカラス」

読み下すと「正長元年より先は、神戸四箇郷に負い目あるべからず」となる。神戸四箇郷 (かんべしかごう) は春日社領の大柳生・小柳生・坂原・邑地の4庄を指し、負い目とは負債のことである。つまり正長元年より前の、神戸四箇郷の借金はすべて消えたと宣言している。一揆勢が奈良へ攻め入ったときに、徳政を勝ち取った郷民の誰かが刻んだと考えられている。1983年(昭和58年)5月19日、国の史跡に指定された。

ただし、日本中世史の研究者である永島福太郎は、碑文にある「ヲイメ」という語が16世紀末の天正期以降のものではないかと指摘し、刻まれた時期に疑問を示している。

後世に与えた影響

尋尊は「日本開白以来、土民蜂起是れ初めなり」と書いた。特定の領主に対する局所的な反抗ではなく、畿内一円の民衆が同じ要求を掲げて動いた点が、当時の人々にとっても衝撃だったのである。

翌1429年(正長2年)、播磨国では土民が「侍をして国中にあらしむべからず」と唱え、守護赤松満祐の軍勢を国外へ追い出そうとする播磨の国一揆が起こった。1441年(永享13年)には、6代将軍足利義教が嘉吉の変で殺害された混乱に乗じて嘉吉の徳政一揆が起こり、数万人規模にふくれあがる。このとき幕府は管領細川持之のもとでついに要求を受け入れ、山城一国平均の徳政令を発布した。幕府が正式に徳政令を出したのは、これが初めてである。

以後、土一揆はほぼ毎年のように起こるようになる。1454年(享徳3年)からは幕府が分一銭(ぶいちせん)を取り、債権額の1割を納めた者について徳政を認める、あるいは債権の存続を認めるという方法をとり、一揆を財源に変えていった。幕府の統制力が衰えていく流れは、応仁の乱へとつながっていく。

一方、民衆の側では、惣村の団結と交渉力が育っていった。実力で要求を通すという経験は、のちの国一揆や加賀の一向一揆へと受け継がれる。正長の土一揆は、身分の低い者が上の者を実力で乗りこえていく下剋上 (げこくじょう) の時代の入口に立つ出来事だったといえる。

参考サイト

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