賤ヶ岳合戦図屏風
1583年(天正11年)4月20日から21日にかけ、織田信長の死後の主導権を争う羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と柴田勝家の軍勢が、近江国北部の賤ヶ岳から柳ケ瀬にかけて衝突した。賤ヶ岳の戦いである。羽柴秀吉が勝利し、天下統一へ大きく前進した。
日本史上のポイント
羽柴秀吉
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賤ヶ岳の戦いは、本能寺の変で信長と嫡男の織田信忠が死んだ後、織田政権を誰が主導するかを決める最大の軍事衝突となった。山崎の戦いで明智光秀を破った羽柴秀吉と、織田家の筆頭家老格であった柴田勝家が正面から争い、織田家臣団を二分したのである。
勝利した羽柴秀吉は、織田家中で並び立つ有力者を失わせ、実質的な後継指導者の地位を固めた。ただし、この時点で全国統一が完成したわけではない。翌1584年(天正12年)には小牧・長久手の戦いで徳川家康・織田信雄と争い、1585年(天正13年)に関白へ就任するなど、さらに政治と軍事の段階を重ねて豊臣政権を築いていく。
戦いの原因
柴田勝家
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1582年(天正10年)6月27日の清洲会議では、信長の後継者と遺領の配分が話し合われた。羽柴秀吉は信長の嫡孫で幼い三法師(後の織田秀信)を、柴田勝家は信長の三男織田信孝を推したとされ、三法師が織田家の家督を継いだ。山崎の戦いで功績を挙げていた羽柴秀吉は、会議後の新たな政治体制で発言力を強めた。
織田信孝
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羽柴秀吉が清洲会議で決めた範囲を越えて主導権を広げると、柴田勝家は織田信孝や滝川一益らと結び、対立は武力闘争へ発展した。1582年(天正10年)末、羽柴秀吉は長浜城を押さえ、岐阜城の織田信孝をいったん降伏させる。一方、@北陸@ほくりく@を本拠とする柴田勝家は冬の積雪に阻まれ、大軍をすぐには南下させにくかった。雪解けを迎えた1583年(天正11年)春、両軍は近江北部で砦を築き、にらみ合った。
戦いの経緯
佐久間盛政
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織田信孝が美濃国で再び動いたため、羽柴秀吉は一部の兵を近江の陣地に残し、大垣へ向かった。その隙を突き、4月20日、柴田勝家方の佐久間盛政は大岩山砦を急襲する。守将の中川清秀を討ち、岩崎山方面にも攻め込んだ。柴田勝家は撤退を命じたとされるが、戦果を広げようとした佐久間盛政は前線にとどまった。
前田利家
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急報を受けた羽柴秀吉は、約1万5000人を率いて大垣から木之本までの約52kmを引き返した。この行軍は「賤ヶ岳の大返し」または「美濃大返し」と呼ばれ、約5時間で進んだと伝えられる。4月21日、羽柴秀吉軍は撤退しようとする佐久間盛政隊を攻撃した。柴田勝家方の前田利家隊などが戦線を離れたことも重なり、柴田軍は崩れて北陸へ敗走した。前田利家の行動の理由や秀吉との事前の連絡については諸説がある。
福島正則
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加藤清正
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加藤清正も20歳代前半の若武者で、福島正則らとともに前線で武功を挙げ、のちに大名へ成長する。ただし、当時の記録には七人以外の近習も功労者として挙げられており、七人の顔ぶれや「七本槍」というまとまりは後世に定着したものと考えられている。
終戦後の措置
お市の方
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後ろ盾を失った織田信孝は、羽柴秀吉と結んだ兄の織田信雄に攻められ、尾張国知多郡の野間で自害に追い込まれた。これにより、信長の後継者をめぐる織田家中の争いは羽柴秀吉が優位に立つ形で決着した。

戦後、柴田勝家の旧領を含む北陸の領地は再配分され、丹羽長秀が北庄に入り、前田利家も加賀国の領地を得て羽柴秀吉に仕えた。秀吉方の武将には戦功に応じた恩賞が与えられ、新しい家臣団の秩序が形づくられた。
戦後、柴田勝家の旧領を含む北陸の領地は再配分され、丹羽長秀が北庄に入り、前田利家も加賀国の領地を得て羽柴秀吉に仕えた。秀吉方の武将には戦功に応じた恩賞が与えられ、新しい家臣団の秩序が形づくられた。
後世への影響
柴田勝家を破った羽柴秀吉は、武力と政治力の両面で織田家中の最有力者となった。同年8月には石山本願寺跡で大坂城の築城を始め、全国支配の拠点を整える。賤ヶ岳の戦いは、のちの豊臣政権が成立するための決定的な一歩であった。

「賤ヶ岳の七本槍」のうち、福島正則や加藤清正らは、その後も九州平定や文禄の役・慶長の役などに従軍し、大名へ成長した。秀吉の死後は石田三成らとの対立から徳川家康に接近し、関ヶ原の戦い前後の政局にも大きな影響を与えた。一方で、七人全員が同じ道を歩んだわけではなく、後世の呼称がそれぞれの生涯をまとめて英雄化した面もある。
「賤ヶ岳の七本槍」のうち、福島正則や加藤清正らは、その後も九州平定や文禄の役・慶長の役などに従軍し、大名へ成長した。秀吉の死後は石田三成らとの対立から徳川家康に接近し、関ヶ原の戦い前後の政局にも大きな影響を与えた。一方で、七人全員が同じ道を歩んだわけではなく、後世の呼称がそれぞれの生涯をまとめて英雄化した面もある。
賤ヶ岳付近の地図
参考サイト
- 賤ヶ岳合戦と七本槍:長浜城歴史博物館
- 清洲会議と秀吉・勝家の対立:福井県文書館『福井県史』
- 柴田勝家―北庄に掛けた夢とプライド:福井市立郷土歴史博物館
- 小牧・長久手の戦い:国立公文書館
- 大坂城跡:文化遺産オンライン
- 加藤清正の実像:熊本市
この時代の世界
(この項おわり)
