ピョートル1世
1700年(元禄13年)から続いた大北方戦争で、ロシアはスウェーデンに勝利した。1721年(享保6年)のニスタット条約により、ロシアはエストニア、リヴォニア、イングリアなどのバルト海沿岸地域を獲得し、海への出口を確保した。北ヨーロッパではスウェーデンの優位が後退し、ロシアが大国として台頭した。
大北方戦争の始まり
17世紀末、スウェーデンはバルト海沿岸に広い領土を持つ強国であった。1700年(元禄13年)、ロシア、デンマーク=ノルウェー、ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト2世らは反スウェーデン同盟を組み、領土の奪回を目指して開戦した。しかし、若い国王カール12世が率いるスウェーデン軍はデンマークを一時離脱させ、ナルヴァの戦いでロシア軍を破った。
ポルタヴァの戦いで逆転
ポルタヴァの戦い
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長期戦の終結
ロシア帝国の成立
西欧化と国家改革
ピョートル1世は、西ヨーロッパの技術や制度を取り入れ、常備軍と海軍の整備、中央官庁の再編、鉱工業の育成、専門学校の設置などを進めた。これらの改革はロシアの軍事力と統治力を高めた一方、戦争を支える重税や長期の兵役は、とくに農民へ大きな負担を課した。
「西欧への窓」サンクトペテルブルク
サンクトペテルブルクの建設
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1703年(元禄16年)、ピョートル1世はバルト海につながるネヴァ川河口にサンクトペテルブルクの建設を始めた。1712年(正徳2年)ごろには首都機能がモスクワから移され、港を通じて西ヨーロッパの人・物・知識を取り入れる拠点となった。この新都は、ロシアの西欧化とバルト海進出を象徴する「西欧への窓」と呼ばれる。
帝都から文化・産業都市へ
サンクトペテルブルクでは運河、街路、宮殿、官庁が計画的に整備され、18世紀後半には冬宮とエルミタージュ美術館の基礎が築かれた。科学アカデミーや大学、劇場も集まり、政治だけでなく学術・文化の中心となった。19世紀には鉄道と工場が発達し、バルト海貿易を担う港湾・工業都市へ成長した。壮大なバロック・新古典主義の街並みは、ロシアやフィンランドの建築にも影響を与えた。
革命、包囲戦、そして現在
サンクトペテルブルクは1905年(明治38年)と1917年の革命の主要な舞台となった。1914年(大正3年)にペトログラード、1924年(大正13年)にレニングラードと改称され、首都は1918年(大正7年)にモスクワへ移った。第二次世界大戦では約900日に及ぶ包囲を受け、多数の市民が命を失った。1991年(平成3年)に現在の市名へ戻り、歴史地区は世界遺産として保存され、ロシアを代表する文化・科学・観光都市となっている。
スウェーデンとバルト海沿岸
敗れたスウェーデンはバルト海東岸の領土を失い、大国としての時代を終えた。国王の戦死後は議会の力が強まる「自由の時代」に入り、国内政治も変化した。ロシア領となったエストニアやリヴォニアでは、現地のドイツ系貴族の自治やルター派信仰が一定程度認められた一方、以後はロシア帝国の支配下に置かれた。フィンランドの大部分はスウェーデンへ返還された。
ポーランド、デンマーク、プロイセン
戦場となったポーランド・リトアニア共和国は大きな被害を受け、王位をめぐる外国の介入も深まった。デンマーク=ノルウェーは失地を十分に回復できなかったが、スウェーデンの優位を弱めた。ブランデンブルク=プロイセンは講和でシュテッティンを含むスウェーデン領ポメラニアの一部を得て、バルト海南岸で勢力を拡大した。こうして北・東ヨーロッパでは、ロシアとプロイセンの存在感が増していった。
この時代の世界
参考サイト
- 大北方戦争開始320周年:ロシア大統領図書館
- ニスタット条約(1721年):ロシア大百科事典
- Russia: A Country Study:米国議会図書館
- Peter the Great:Encyclopaedia Britannica
- サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群:UNESCO世界遺産センター
(この項おわり)
