西暦1909年 - 伊藤博文の暗殺

日韓併合へ
安重根
伊藤博文を狙撃した安重根
1905年(明治38年)、第二次日韓協約が調印され、日本は韓国(大韓帝国)を保護国とした。韓国は外交権を失い、翌1906年(明治39年)、漢城 (ハンソン) (現在のソウル)に統監府 (とうかんふ) が置かれる。初代統監には伊藤博文 (いとうひろぶみ) が就任した。
一方、韓国皇帝の高宗は、オランダのハーグで開かれていた万国平和会議に密使を送り、日本のやり方が不当であることを訴えようとした(ハーグ密使事件)。日本はこれを理由に1907年(明治40年)、高宗を退位させ、第三次日韓協約を結んで韓国の内政を握り、韓国軍を解散させる。韓国内では日本に対する反感が高まり、武力で抵抗する義兵運動 (ぎへいうんどう) が広がった。

目次

保護国化と統監政治

統監は、韓国の外交を代わりに行うだけの役ではなかった。第三次日韓協約のあとは、法令をつくることや高い地位の官吏を任免することに統監の同意が必要となり、日本人が韓国政府の官吏として送り込まれた。司法や警察の実務にも日本人が入り込み、韓国の政治は事実上、統監府が動かすようになる。

伊藤博文は、韓国を日本に併合してしまうよりも、保護国のまま日本が実権を握って統治するほうがよいと考えていたとされる。1907年(明治40年)7月、京城(現在のソウル)で新聞記者を前に「日本は韓国を合併するの必要なし。韓国は自治を要す」と演説している。ただし、この方針が韓国の人々の反発を鎮めることはなかった。

義兵運動は収まらず、日本軍は各地でこれを鎮圧した。統治は行き詰まり、1909年(明治42年)6月14日、伊藤は統監を辞任する。後任の統監には、それまで副統監だった曾禰荒助が就いた。伊藤は、天皇の諮問機関である枢密院の議長に戻っている。

ハルビン駅の凶弾

ハルビン駅での狙撃
ハルビン駅のホームで銃声が響いた
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1909年(明治42年)10月26日午前9時、枢密院議長となっていた伊藤を乗せた列車が、ロシアが満洲に敷いた東清鉄道 (とうしんてつどう) のハルビン駅(現在の中国黒竜江省ハルビン市)に着いた。伊藤は車内でロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと会い、満洲と朝鮮をめぐる日露の利害を非公式に話し合う予定だった。挨拶を終えた伊藤は、出迎えの儀仗兵 (ぎじょうへい) を見るためホームに降りる。
午前9時30分ごろ、群衆のなかから安重根 (アンジュングン) が拳銃を発砲した。7発装填の拳銃から6発が撃たれ、うち3発が伊藤に当たる。伊藤はしばらく意識があったが、およそ30分後の午前10時に死亡した。満68歳だった。同行していた日本人3名も負傷している。安重根はその場でロシアの官憲に取り押さえられた。

なお、随行していた室田義文は、後年に出た回想録『室田義文翁譚』で、伊藤に当たった弾は安重根の拳銃のものではなく、弾道が上から下へ向いていたことから、高い位置にいた別の狙撃手が撃ったと述べた。これをもとに、日本国内の併合強硬派による謀殺だったとする説が唱えられている。しかし裏づけとなる物証は示されておらず、異説の域を出ない。裁判記録や現場の証言にもとづく通説は、撃ったのは安重根一人だというものである。

安重根とは何者か

獄中で執筆する安重根
安重根は獄中で『東洋平和論』を書き始めた
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安重根(1879年~1910年)は、黄海道 (ファンヘド) 海州の両班 (ヤンバン) (朝鮮王朝の支配層)の家に生まれた。カトリックの洗礼を受け、1906年(明治39年)には私財を投じて鎮南浦 (チンナムポ) に学校を二つ開いている。その後ロシア領のウラジオストクに渡り、義兵の部隊を率いて日本軍と戦った。1909年(明治42年)3月には同志11名とともに断指同盟を結び、左手の薬指の第一関節を切り落として独立を誓っている。
安重根は、自分の行為を個人の恨みによるものではなく、大韓義軍と称した義兵部隊の参謀中将としての戦闘行為だと主張し、捕虜として扱うよう求めた。裁判では伊藤の罪状15箇条を挙げ、王妃の殺害に関わったこと、条約を強要したこと、皇帝を退位させたこと、軍隊を解散させたこと、東洋の平和を乱したことなどを並べている。ただしそのなかには、孝明天皇を殺したという当時の風説にもとづく、事実でない項目も含まれていた。

韓国はすでに外交権を失っていたため、日本は在外の韓国人にも日本の裁判権が及ぶとして、身柄をロシアから引き取った。裁判は日本の租借地である旅順 (りょじゅん) 関東都督府地方法院で開かれる。1910年(明治43年)2月14日に死刑判決が下り、安重根は控訴しなかった。同年3月26日、旅順刑務所で死刑が執行される。30歳だった。ほかに3名が起訴され、懲役刑を受けている。韓国側は、この裁判の正当性そのものを認めていない。

安重根は獄中で『東洋平和論』を書き始めた。日本・清・韓国が対等に手を結んで東洋の平和を守るべきだという構想である。獄中での聞き取りでは、旅順を三国共同の中立地帯とし、共同の銀行と共通の通貨をつくることなどを語っている。安重根は書き終えるまで刑の執行を待つよう願い出たが認められず、この文章は序を書いたところで未完に終わった。

暗殺は併合を早めたのか

韓国併合条約の調印
大韓帝国は1910年(明治43年)に消滅した
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この事件は「伊藤が併合に反対していたので、その死が併合への道を開いた」と説明されることがある。しかし、日本政府が併合の方針を決めたのは暗殺よりも前である。1909年(明治42年)3月、外務大臣小村寿太郎が併合を断行するという意見書をまとめ、4月に首相桂太郎とともに統監在任中の伊藤を訪ねると、伊藤は異存がないと答えた。
そして1909年(明治42年)7月6日、閣議は「適当ノ時期ニ於テ韓国ノ併合ヲ断行スル事」を決定した。暗殺のおよそ4か月前である。事件は、抗日運動を抑えるという口実として、また併合を支持する世論をつくるうえで利用されたが、併合そのものを決めた要因ではない。

1910年(明治43年)5月、寺内正毅が第3代統監となる。同年8月22日、寺内と韓国の総理大臣李完用韓国併合ニ関スル条約に調印し、8月29日に公布された。こうして大韓帝国は滅び、日本は韓国を植民地とし、「朝鮮」と呼ぶようになる。朝鮮総督府による統治は1945年(昭和20年)まで続いた。

日露関係への影響

暗殺が起きたハルビンは清国の領土だが、ロシアが敷いた東清鉄道の付属地であり、駅の警備もロシアが担当していた。前統監が自国の管理する鉄道付属地で殺されたことは、ロシアにとって面目を失う出来事である。しかし事件が日露の対立につながることはなかった。ロシアはむしろ日本との協調に傾き、日本の韓国支配を追認していく。

1910年(明治43年)7月4日、両国は第二次日露協約日露協約)を結び、満洲における互いの権益を認め合った。韓国併合条約の調印は、その1か月半後である。日本は、ロシアとの利害調整を済ませたうえで併合に踏み切ったことになる。ただし、この協約の直接のきっかけは、アメリカの国務長官ノックスが提案した満洲の鉄道の中立化案に日露が共同で反対したことであり、暗殺との因果関係を示す史料はない。

日韓での評価と独立運動

日本では、伊藤は明治維新に参加し、その後の明治政府で大日本帝国憲法の制定や議会政治の確立に力を尽くした政治家として高く評価されてきた。1963年(昭和38年)に発行が始まった千円札の肖像にも使われている。この千円札は1986年(昭和61年)に日本銀行からの支払いが停止されたが、紙幣としては現在も有効である。

韓国では、安重根は国の主権を守るために命をささげた義士として敬われている。ソウルの南山 (ナムサン) には安重根義士記念館があり、2014年(平成26年)には中国のハルビン駅にも記念館が設けられた。この記念館は2017年(平成29年)に駅の改築で閉館し、2019年(平成31年)に近くへ移って再開している。一方、日本政府は2013年(平成25年)の官房長官の発言などで、安重根を犯罪者と位置づけている。

もっとも、日本側の受け止めが一様だったわけではない。旅順で安重根の看守を務めた千葉十七 (ちばとおしち) は、処刑後もその死を悼み、故郷の宮城県で供養を続けたと伝えられる。京都の龍谷大学には、安重根が獄中で書いた遺墨 (いぼく) が伝えられている。

安重根の行動は、のちの独立運動家たちに大きな影響を与えたとされる。併合後の1919年(大正8年)には三・一運動と呼ばれる大規模な独立運動が起こり、同じ年に上海で大韓民国臨時政府がつくられる。抗日独立運動は、1945年(昭和20年)に日本の統治が終わるまで続いた。

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