崇峻天皇(イメージ)
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「猪の首」の失言
蘇我馬子(イメージ)
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『日本書紀』によると592年10月、献上された猪の首を見た崇峻天皇は、「いつかこの猪の首のように、自分が憎いと思う者を斬りたい」と語った。さらに武器を多く用意したため、側近の嬪・大伴小手子は、自分への寵愛が衰えたことを恨み、この発言と動きを馬子へ密告した。馬子は天皇が自分を討とうとしていると警戒し、殺害を決断したと記される。
暗殺の実行と異例の埋葬
倉梯岡陵
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592年11月3日、馬子は東国からの貢物を献上すると偽って天皇を宮中へ呼び出し、渡来系氏族の東漢直駒に殺害させた。同日、遺体は倉梯岡陵に葬られた。天皇の葬送で通常行われた殯の記載がなく、死亡当日の埋葬という異例の扱いである。暗殺後に大きな反乱が記録されないことから、馬子以外の有力者も排除を黙認した可能性が指摘される。
実行犯の東漢直駒は、暗殺後に崇峻天皇の嬪・河上娘を奪って妻にした。馬子は当初、娘が死んだものと思っていたが、後に真相を知って駒を殺した。『日本書紀』は私通への処罰として記すが、暗殺の内情を知る実行犯への口封じだったとみる説もある。ただし、口封じだったと直接示す史料はなく、後世の推測である。
初の女帝「推古天皇」の誕生
推古天皇(イメージ)
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蜂子皇子の逃亡伝説
崇峻天皇の皇子・蜂子皇子は、父の暗殺後に厩戸皇子の助言で宮中を脱出し、日本海を北上して出羽へ逃れ、593年に羽黒山を開いたと伝えられる。しかし、出羽三山神社の説明では、能除仙を蜂子皇子と同一視する説が形を整えたのは江戸時代初期である。逃亡経路や開山年を同時代史料で確認できないため、史実ではなく後世の開山伝承として扱う必要がある。
現代の歴史学的な疑問・諸説
事件の基本的な叙述は、暗殺から約130年後の720年に成立した『日本書紀』に依存する。「猪の首」の発言をそのまま事実とみなせるか、馬子の単独命令だったのか、群臣や王族の合意があったのかは確定できない。天皇が任那復興のため大伴氏に軍を任せようとし、馬子の外交・軍事方針と衝突したとみる説や、推古天皇を中心とする新体制への交代劇だったとみる説もある。

一方、馬子が自ら擁立した天皇を5年後に除いたこと、暗殺後も馬子が失脚せず政治を続けたことは、単純な個人的怨恨だけでは説明しにくい。『日本書紀』が蘇我氏を強大で横暴な一族として描く編集方針も考慮すべきである。したがって、猪の首の発言を決定打とする物語は重要な史料である一方、暗殺の本当の動機や意思決定の範囲には未解決の問題が残る。
一方、馬子が自ら擁立した天皇を5年後に除いたこと、暗殺後も馬子が失脚せず政治を続けたことは、単純な個人的怨恨だけでは説明しにくい。『日本書紀』が蘇我氏を強大で横暴な一族として描く編集方針も考慮すべきである。したがって、猪の首の発言を決定打とする物語は重要な史料である一方、暗殺の本当の動機や意思決定の範囲には未解決の問題が残る。
この時代の世界
(この項おわり)

古代、天皇が暗殺される例は幾つか知られているが、この事件は史上記録された唯一のものである。
蘇我馬子に請われて、第30代敏達天皇の皇后が推古天皇として即位する。日本史上初の女帝誕生である。
翌593年、推古天皇は甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として政治を補佐させた。