西暦589年 - 隋による中国統一

わずか38年で滅亡
陽堅(文帝)
陽堅(文帝)
北周の外戚 (がいせき) だった陽堅 (ようけん) が、581年、帝位を奪って (ずい) (581~618)を建国する。陽堅は文帝を名乗り、589年、南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一する。439年から続く南北朝時代が終焉する。

文帝は中央集権的な律令制度を整備し、門閥貴族による世襲を排除するため、学科試験によって官僚を採用した。これは、後に科挙 (かきょ) と呼ばれるようになり、清が滅亡する直前までの約1300年にわたって続くことになる。

目次

南北朝時代の終焉

武帝(イメージ)
武帝(イメージ)
439年に北魏 (ほくぎ) が華北を統一して南北朝時代が始まったが、6世紀半ばに北朝は東魏・西魏、さらに北斉 (ほくせい) 北周 (ほくしゅう) へと分裂を重ねた。577年、北周が北斉を滅ぼして華北を再統一する一方、南朝は宋・斉・梁と交代した末に陳のみが江南を治めるにとどまり、南北朝時代は終盤を迎えていた。

陽堅の長女・楊麗華は573年、北周の皇太子(後の宣帝 (せんてい) )に嫁いだ。578年に武帝 (ぶてい) が没して宣帝が即位すると、陽堅はその外戚として重用される。580年、宣帝が急逝し、わずか7歳の静帝 (せいてい) が即位すると、陽堅は丞相として実権を握った。

突厥を撃退

突厥(イメージ)
突厥(イメージ)
隋の北方には遊牧国家の突厥 (とっけつ) が勢力を広げていた。建国直後の582年、沙鉢略可汗 (しゃはちりゃくかがん) が南下して隋領に侵入するが、文帝はこれを撃退する。その後、突厥内部の対立に乗じて分裂を促し、583年には東西突厥への分裂に成功、北方の脅威を大きく後退させた。

文帝の治世

文帝は「開皇律 (かいこうりつ) 」を制定して律令を整備し、三省六部制による中央官制、州県二級制による地方行政を確立した。均田制を全国に施行して税収を安定させ、凶作に備える義倉を各地に設置するなど内政の充実に努めた。この治世は「開皇の治」と称えられる。

煬帝の治世

604年、煬帝 (ようだい) は父の文帝を暗殺して帝位に就いた。
煬帝は洛陽 (らくよう) に東都を造営して遷都し、605年から608年にかけて黄河・淮河・長江・杭州を結ぶ大運河を完成させ、南北の物流を一体化させた。だが大規模な土木事業に加え、612年から614年にかけて三度にわたる高句麗 (こうくり) 遠征を行うも失敗を重ね、民衆の負担は限界に達した。

隋の滅亡

煬帝(イメージ)
煬帝(イメージ)
相次ぐ大土木事業と高句麗遠征の失敗で民衆の不満が高まるなか、613年には重臣の楊玄感 (ようげんかん) が挙兵し、隋の権威は大きく揺らいだ。

以後、各地で反乱が相次ぎ、李密 (りみつ) の瓦崗軍、竇建徳 (とうけんとく) 王世充 (おうせいじゅう) らが割拠した。618年、江都に逃れていた煬帝は臣下の宇文化及 (うぶんかきゅう) に殺害され、隋は建国からわずか38年で滅亡した。

ちなみに、聖徳太子が小野妹子を派遣した第2回遣隋使は煬帝の時代のことである。

この時代の世界

475 525 575 625 675 500 500 500 500 600 600 600 600 543 578 武帝 559 580 宣帝 573 581 静帝 589 隋による中国統一 541 604 陽堅→文帝 583 東西突厥の分裂 569 618 煬帝 613 楊玄感の乱 582 619 李密 573 621 竇建徳 621 王世充 569 619 宇文化及 566 635 高祖 574 648 孔穎達 618 唐の建国 598 649 太宗 538 仏教伝来 509 571 欽明天皇 540 570 蘇我稲目 538 585 敏達天皇 540 587 物部守屋 547 587 用明天皇 550 592 崇峻天皇 551 626 蘇我馬子 554 628 推古天皇 592 崇峻天皇、暗殺 574 622 聖徳大使 603 冠位十二階 604 十七条憲法 607 第2回遣隋使 586 645 蘇我蝦夷 597 654 孝徳天皇 594 661 皇極天皇→斉明天皇 581 649 ソンツェン・ガンボ 590 647 ハルシャ・ヴァルダナ 600 642 プラケーシン2世 531 ホスロー1世が即位 530 579 ホスロー1世 570 632 ムハンマド 622 ヒジュラ(聖遷) 600 661 アリー 642 ニハーヴァンドの戦い 560 628 ホスロー2世 573 634 アブー・バクル 592 644 ウマル・イブン・ハッターブ 500 548 テオドラ 482 565 ユスティニアヌス1世 Tooltip
(この項おわり)
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