陽堅(文帝)
南北朝時代の終焉
武帝(イメージ)
突厥を撃退
突厥(イメージ)
文帝の治世
文帝は「開皇律」を制定して律令を整備し、三省六部制による中央官制、州県二級制による地方行政を確立した。均田制を全国に施行して税収を安定させ、凶作に備える義倉を各地に設置するなど内政の充実に努めた。この治世は「開皇の治」と称えられる。
煬帝の治世
604年、煬帝は父の文帝を暗殺して帝位に就いた。
煬帝は洛陽に東都を造営して遷都し、605年から608年にかけて黄河・淮河・長江・杭州を結ぶ大運河を完成させ、南北の物流を一体化させた。だが大規模な土木事業に加え、612年から614年にかけて三度にわたる高句麗遠征を行うも失敗を重ね、民衆の負担は限界に達した。
煬帝は洛陽に東都を造営して遷都し、605年から608年にかけて黄河・淮河・長江・杭州を結ぶ大運河を完成させ、南北の物流を一体化させた。だが大規模な土木事業に加え、612年から614年にかけて三度にわたる高句麗遠征を行うも失敗を重ね、民衆の負担は限界に達した。
隋の滅亡
煬帝(イメージ)
この時代の世界
(この項おわり)

文帝は中央集権的な律令制度を整備し、門閥貴族による世襲を排除するため、学科試験によって官僚を採用した。これは、後に科挙と呼ばれるようになり、清が滅亡する直前までの約1300年にわたって続くことになる。