531年にホスロー1世が即位した当時は、相次ぐ対外戦争などで疲弊していたため、ホスロー1世は交通路や都市を整備し、交易による国家再建に乗り出した。
対外的には、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のユスティニアヌス1世と戦い、自国有利の和平条約を締結した。突厥と結んでエフタルやエチオピアとも戦い版図を広げるとともに、東西の異文化と伝統文化を融合させた独特の文化を生み出した。
国内では税制と行政を立て直し、学問を奨励して、ササン朝の最盛期を築いた。
対外的には、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のユスティニアヌス1世と戦い、自国有利の和平条約を締結した。突厥と結んでエフタルやエチオピアとも戦い版図を広げるとともに、東西の異文化と伝統文化を融合させた独特の文化を生み出した。
国内では税制と行政を立て直し、学問を奨励して、ササン朝の最盛期を築いた。
エフタルを滅ぼす
エフタル
かつて中央アジアを支配した遊牧国家のエフタルは、5世紀後半にはササン朝を圧迫し貢納を課すほどの勢力を誇っていた。ホスロー1世は552年に建国された突厥と同盟を結び、557年から561年ごろにかけてエフタルを東西から挟撃してこれを滅ぼした。エフタルの旧領は突厥とササン朝で分割され、ホスロー1世は中央アジア方面の版図を大きく広げた。
ビザンツ帝国との関係
ユスティヌス2世
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ビザンツ帝国とは、即位の翌年である532年に、皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527年 - 565年)との間で多額の金を対価とする「永久平和条約」を結んだ。しかし540年にホスロー1世が条約を破棄して開戦し、541年には黒海東岸のラジカ地方の支配権をめぐる戦争に発展した。545年に休戦、557年の停戦を経て、562年には50年間の和平条約が成立し、西方国境はいったん安定した。
ホスロー1世の内政
内政では国土を4つの行政区に分けて土地台帳を整備し、収穫高に応じた地租制度を導入して財政を強化した。バビロニア地方では大運河の建設・修復も行っている。宗教面では、皇太子時代から続けてきた新興宗教マズダク教への弾圧を徹底して根絶させる一方、キリスト教徒など異教徒には寛容な態度で臨み、国内の安定を図った。
学問の奨励
ジュンディーシャープール大学の遺跡
ホスロー1世は学問振興にも力を注ぎ、南西部の都市ジュンディーシャープールの学院を発展させ、各地から学者を招いてギリシア語やサンスクリット語の文献を翻訳させた。529年にビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世がアテネの学園を閉鎖すると、行き場を失ったギリシア人哲学者たちを保護し、東西の学問がササン朝に集約される契機となった。
ホスロー1世の没後
ホスロー2世
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642年のニハーヴァンドの戦いでイスラーム軍に大敗すると、イラン各地では急速にイスラーム化が進んだ。651年、最後の王ヤズデギルド3世が逃亡先で殺害されてササン朝ペルシアは滅亡したが、ゾロアスター教の伝統やジュンディーシャープールで培われた学問の遺産は、後のイスラーム帝国に受け継がれていく。
参考サイト
この時代の世界
(この項おわり)

アルダシール1世がゾロアスター教の神官階層であったことから、ゾロアスター教を国教とし、アケメネス朝ペルシアの復興を目標とした。2代目のシャープール1世は東のクシャン朝、西のローマ帝国に対して幾度も勝利をおさめ、260年のエデッサの戦いではローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜として、王朝の基盤を固めた。