1985年(昭和60年)8月12日18時56分、日本航空123便(羽田空港→伊丹空港、ボーイング747SR-100)が、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落した。乗員乗客524名のうち死者520名を出す大惨事となった。単独機の事故としては、死者数が世界最多である。
事故機の来歴
墜落した機体は1974年(昭和49年)1月に製造された、ボーイング747SR-100型(機体記号JA8119)である。国内の短距離路線で多くの乗客を運ぶために造られた機種で、離着陸の回数が多い。
1978年(昭和53年)6月2日、伊丹空港に着陸しようとした際、機体尾部が滑走路と接触する尻もち事故を起こし、ボーイング社で修理された。後部圧力隔壁を修理する中で発生した作業ミスが、後の墜落事故の原因になったとされている。
1978年(昭和53年)6月2日、伊丹空港に着陸しようとした際、機体尾部が滑走路と接触する尻もち事故を起こし、ボーイング社で修理された。後部圧力隔壁を修理する中で発生した作業ミスが、後の墜落事故の原因になったとされている。
墜落までの経過
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1985年(昭和60年)8月12日、お盆の帰省客でほぼ満席となった123便は、18時12分に羽田空港を離陸した。18時24分、伊豆半島南部の上空、高度約7,300m(23,900フィート)を飛行中に「ドーン」という衝撃音が起きる。機体後部の圧力隔壁が壊れ、噴き出した与圧空気で垂直尾翼の大半と補助動力装置(APU)が脱落した。同時に4系統すべての油圧が失われ、方向舵、昇降舵、補助翼のいずれも動かなくなった。
18時24分47秒、機長はスコーク7700(緊急信号)を発信し、羽田空港への引き返しを要求した。名古屋空港や横田基地への着陸も打診されたが、機長は羽田を目指し続けた。機体はエンジンの推力と車輪の出し入れだけを頼りに、上下に大きく波打つフゴイド運動と、左右に振れるダッチロールを繰り返しながら、静岡県東部から富士山の東麓を越えて北上した。

18時49分ごろには機首が39度まで上がって失速警報が鳴り、乗務員は現在位置を見失っていた。18時55分すぎ、フラップを下げた直後に機体は右に傾いて急降下に入る。18時56分、群馬県多野郡上野村と長野県の県境に近い高天原山の尾根に右主翼から接触し、機体は尾根の斜面に激突して大破した。異常発生から墜落までは32分間だった。

生存者は4名で、いずれも機体後部の座席にいた。非番の客室乗務員1名、母子2名、女子中学生1名である。死者は520名にのぼり、単独機の航空機事故としては世界で最も多い。この墜落地点は、後に御巣鷹の尾根と呼ばれるようになる。
18時49分ごろには機首が39度まで上がって失速警報が鳴り、乗務員は現在位置を見失っていた。18時55分すぎ、フラップを下げた直後に機体は右に傾いて急降下に入る。18時56分、群馬県多野郡上野村と長野県の県境に近い高天原山の尾根に右主翼から接触し、機体は尾根の斜面に激突して大破した。異常発生から墜落までは32分間だった。
生存者は4名で、いずれも機体後部の座席にいた。非番の客室乗務員1名、母子2名、女子中学生1名である。死者は520名にのぼり、単独機の航空機事故としては世界で最も多い。この墜落地点は、後に御巣鷹の尾根と呼ばれるようになる。
事故処理
急峻な尾根で行われた捜索活動(イメージ)
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墜落直後、上空を飛んだ自衛隊機や米軍機が山中の火災を確認したが、正確な位置の特定は難航した。当時はGPSがなく、深夜の闇と山火事の煙で視界も悪かったため、長野県側の別の山を墜落地点とする誤った情報が流れた。長野県警のヘリコプターが尾根の現場を確認したのは翌13日5時37分、地上の捜索隊が到着したのは墜落から約11時間半後だった。
13日10時50分ごろ、上野村消防団などの隊員がスゲノ沢で生存者を発見し、13時半までに4名全員が大型ヘリコプターで吊り上げられて搬送された。捜索活動には最大で1日約2,000名が投入され、自衛隊の災害派遣は8月12日夜から10月13日までの63日間に及んだ。遺体の空輸は8月14日から10月1日まで135回行われた。

遺体の収容は8月14日から始まり、群馬県藤岡市の市民体育館が検視と安置の場所にあてられた。身元の確認には約4か月を要し、520名のうち518名(99.6%)が判明した。手がかりの内訳は指紋44.4%、歯型15.1%、着衣12.4%である。当時はDNA型鑑定が実用化されておらず、炎上した航空機事故としては確認率が極めて高かったと評価されている。地元の医師会、日本赤十字社、村民や民間団体の協力が大きかった。

1986年(昭和61年)8月1日、墜落現場に慰霊碑「昇魂之碑」が建立され、同じ日に上野村楢原地区に「慰霊の園」が完成した。園内には、身元が判明しなかった遺骨を納める納骨堂と展示棟がある。なお「御巣鷹の尾根」という名称は、群馬県警本部長から公文書に使う名前を求められた上野村長の黒沢丈夫が付けたもので、地理上は高天原山の尾根である。
遺体の収容は8月14日から始まり、群馬県藤岡市の市民体育館が検視と安置の場所にあてられた。身元の確認には約4か月を要し、520名のうち518名(99.6%)が判明した。手がかりの内訳は指紋44.4%、歯型15.1%、着衣12.4%である。当時はDNA型鑑定が実用化されておらず、炎上した航空機事故としては確認率が極めて高かったと評価されている。地元の医師会、日本赤十字社、村民や民間団体の協力が大きかった。
1986年(昭和61年)8月1日、墜落現場に慰霊碑「昇魂之碑」が建立され、同じ日に上野村楢原地区に「慰霊の園」が完成した。園内には、身元が判明しなかった遺骨を納める納骨堂と展示棟がある。なお「御巣鷹の尾根」という名称は、群馬県警本部長から公文書に使う名前を求められた上野村長の黒沢丈夫が付けたもので、地理上は高天原山の尾根である。
原因調査
後部圧力隔壁の継ぎ方の違い(模式図)
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運輸省航空事故調査委員会は8月14日から現場調査に入り、米国国家運輸安全委員会(NTSB)、ボーイング社、連邦航空局(FAA)も加わった。同日にはフライトレコーダーとボイスレコーダーが回収され、相模湾からは脱落した尾部の破片が引き揚げられた。修理された後部圧力隔壁の継ぎ目には、リベットが1列しか打たれていない箇所が見つかり、破断面からは金属疲労の痕が確認された。
1987年(昭和62年)6月19日に公表された事故調査報告書は、次のような推定原因を示した。1978年(昭和53年)6月2日、伊丹空港で123便と同じ機体が起こしたしりもち事故の修理で、ボーイング社が定められた手順から外れた継ぎ方をしたため、後部圧力隔壁の疲労強度が大きく低下した。その後の飛行で亀裂が広がり、約7年後に隔壁が壊れた。噴き出した与圧空気が尾部の構造を壊し、垂直尾翼とAPUが脱落して、4系統の油圧が同時に失われ、操縦不能に至った。

報告書は、工場以外で大規模な修理が行われる場合の作業管理の徹底、修理を受けた部位を継続して監視すること、与圧構造が壊れた場合のフェールセーフ性を耐空性の基準に加える検討を勧告した。これを受けてFAAは、1985年(昭和60年)に全747型機の隔壁点検を命じ(AD 85-22-12)、1986年(昭和61年)には垂直尾翼の開口部にカバーを付けるよう、1987年(昭和62年)には第4油圧系統に油圧ヒューズを付けるよう命じた。ボーイング社は隔壁を補強した設計に変更した。

刑事責任の追及については、群馬県警が1988年(昭和63年)12月1日、ボーイング社関係者4名、日本航空関係者12名、運輸省関係者4名の計20名を業務上過失致死傷の疑いで前橋地方検察庁に書類送検した。しかし1989年(平成元年)11月、全員が不起訴となった。理由は、ボーイング社関係者の事情聴取ができず修理ミスの具体的な内容が特定できないこと、日本航空と運輸省の関係者については各種の検査で修理ミスや亀裂を見つけることが不可能だったことである。

一方で、自衛隊機や標的機との接触、ミサイルの誤射などを唱える説も出された。しかし、いずれも公式な調査で裏付けられておらず、日本航空も科学的根拠がないとしている。急減圧の程度や客室の様子、捜索救難の経緯をめぐる遺族の疑問に答えるため、運輸安全委員会は2011年(平成23年)7月に報告書の解説を公表した。作成には遺族の会「8・12連絡会」が協力し、ノンフィクション作家の柳田邦男が寄稿している。
報告書は、工場以外で大規模な修理が行われる場合の作業管理の徹底、修理を受けた部位を継続して監視すること、与圧構造が壊れた場合のフェールセーフ性を耐空性の基準に加える検討を勧告した。これを受けてFAAは、1985年(昭和60年)に全747型機の隔壁点検を命じ(AD 85-22-12)、1986年(昭和61年)には垂直尾翼の開口部にカバーを付けるよう、1987年(昭和62年)には第4油圧系統に油圧ヒューズを付けるよう命じた。ボーイング社は隔壁を補強した設計に変更した。
刑事責任の追及については、群馬県警が1988年(昭和63年)12月1日、ボーイング社関係者4名、日本航空関係者12名、運輸省関係者4名の計20名を業務上過失致死傷の疑いで前橋地方検察庁に書類送検した。しかし1989年(平成元年)11月、全員が不起訴となった。理由は、ボーイング社関係者の事情聴取ができず修理ミスの具体的な内容が特定できないこと、日本航空と運輸省の関係者については各種の検査で修理ミスや亀裂を見つけることが不可能だったことである。
一方で、自衛隊機や標的機との接触、ミサイルの誤射などを唱える説も出された。しかし、いずれも公式な調査で裏付けられておらず、日本航空も科学的根拠がないとしている。急減圧の程度や客室の様子、捜索救難の経緯をめぐる遺族の疑問に答えるため、運輸安全委員会は2011年(平成23年)7月に報告書の解説を公表した。作成には遺族の会「8・12連絡会」が協力し、ノンフィクション作家の柳田邦男が寄稿している。
日本航空の経営への影響
社長の高木養根は、事故の2日後にあたる8月14日に辞意を表明した。後任は10月27日に発表され、元運輸事務次官の山地進が12月に社長へ就任し、鐘紡会長の伊藤淳二が新設の副会長に就いた。高木は退任後、個人の資格で遺族を訪ね、毎年夏に御巣鷹の尾根へ慰霊登山を続けた。

経営面では、利用客の減少と補償経費の増加によって業績が一時的に悪化した。また1987年(昭和62年)3月には、群馬県警の取り調べを受けていた元運輸省の検査官が自殺している。

遺族との補償交渉は長引いた。政府の答弁書によれば、1988年(昭和63年)6月30日の時点で示談が成立したのは308名分で、交渉中118名分、未交渉8名分、訴訟中86名分が残っていた。国会では、日本航空が3年の時効を盾に遺族へ決着を迫っているのではないかという指摘も出された。

事故の翌月にあたる1985年(昭和60年)9月には完全民営化の方針が打ち出され、1987年(昭和62年)11月18日、日本航空株式会社法を廃止する法律が施行されて完全民営化が実現した。ただし民営化は1980年代の行政改革の流れの中で進んだ措置であり、事故が直接の原因とされているわけではない。日本航空は1992年度に538億円の経常損失を出し、2010年(平成22年)1月19日には会社更生法の適用を申請するが、この経営破綻の原因として挙げられているのはバブル期の投資や外部環境の悪化であって、この事故と直接結びつけられてはいない。
経営面では、利用客の減少と補償経費の増加によって業績が一時的に悪化した。また1987年(昭和62年)3月には、群馬県警の取り調べを受けていた元運輸省の検査官が自殺している。
遺族との補償交渉は長引いた。政府の答弁書によれば、1988年(昭和63年)6月30日の時点で示談が成立したのは308名分で、交渉中118名分、未交渉8名分、訴訟中86名分が残っていた。国会では、日本航空が3年の時効を盾に遺族へ決着を迫っているのではないかという指摘も出された。
事故の翌月にあたる1985年(昭和60年)9月には完全民営化の方針が打ち出され、1987年(昭和62年)11月18日、日本航空株式会社法を廃止する法律が施行されて完全民営化が実現した。ただし民営化は1980年代の行政改革の流れの中で進んだ措置であり、事故が直接の原因とされているわけではない。日本航空は1992年度に538億円の経常損失を出し、2010年(平成22年)1月19日には会社更生法の適用を申請するが、この経営破綻の原因として挙げられているのはバブル期の投資や外部環境の悪化であって、この事故と直接結びつけられてはいない。
後世に与えた影響
毎年8月12日に続く慰霊登山(イメージ)
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遺族は1985年(昭和60年)12月20日に「8・12連絡会」を結成した。遺族どうしの支援、事故原因の究明の促進、公共輸送機関の安全の追究を掲げ、政治や宗教の団体には属さない方針をとる。会報「おすたか」の発行、毎年8月12日の慰霊登山、8月11日の夜に神流川で行う灯篭流しなどを続けている。
事故調査の体制も変わった。1974年(昭和49年)に運輸省へ置かれた航空事故調査委員会は、2001年(平成13年)10月1日に航空・鉄道事故調査委員会へ改組され、2008年(平成20年)10月1日には運輸安全委員会となった。国家行政組織法第3条に基づく外局となったことで独自の人事権を持ち、事故の当事者である民間企業へも直接勧告できるようになった。調査の目的は責任の追及ではなく、将来の事故を防ぐことだという考え方が制度として定着した。

技術面では、与圧構造が壊れても操縦系統がすべて失われないようにするフェールセーフの考え方が重視されるようになった。垂直尾翼の開口部にはカバーが付けられ、第4油圧系統には作動油の流出を止める油圧ヒューズが設けられた。大規模な修理を受けた機体を継続して監視する仕組みや、与圧胴体の修理を評価する制度も整えられた。

被害者支援の面では、国土交通省が2012年(平成24年)4月に公共交通事故被害者支援室を設置した。制度をつくる際には、8・12連絡会の紹介で遺族6名から聞き取りが行われ、「自宅に残っている家族への連絡がなかった」「事故原因は報道からの情報が多かった」「行政手続きを相談する相手がいなかった」といった声が記録されている。

日本航空は2006年(平成18年)4月24日に安全啓発センターを開設した(2013年12月に羽田の整備センター内へ移転)。123便の後部胴体や垂直尾翼、後部圧力隔壁の残骸、ボイスレコーダー、乗客が家族に残した手紙などを展示し、社員教育と航空安全の啓発に使われている。事前予約制で一般にも公開されている。

救助のあり方も問い直された。群馬県が残した記録は、急峻な山岳地帯で墜落現場の確認に長時間を要したことを踏まえ、夜間に航空機を使う捜索の充実、県がより強い調整機能を持つ体制、国レベルの調整機関を現地に置くことの必要性を課題として挙げている。経費の最終的な負担についての考え方が確立していない点も指摘された。

文化の面でも影響は大きい。上毛新聞の記者として事故報道にあたった横山秀夫は、地方新聞社を舞台にした『クライマーズ・ハイ』を書いた。山崎豊子の『沈まぬ太陽』も、この事故を作品の重要な場面として扱っている。
技術面では、与圧構造が壊れても操縦系統がすべて失われないようにするフェールセーフの考え方が重視されるようになった。垂直尾翼の開口部にはカバーが付けられ、第4油圧系統には作動油の流出を止める油圧ヒューズが設けられた。大規模な修理を受けた機体を継続して監視する仕組みや、与圧胴体の修理を評価する制度も整えられた。
被害者支援の面では、国土交通省が2012年(平成24年)4月に公共交通事故被害者支援室を設置した。制度をつくる際には、8・12連絡会の紹介で遺族6名から聞き取りが行われ、「自宅に残っている家族への連絡がなかった」「事故原因は報道からの情報が多かった」「行政手続きを相談する相手がいなかった」といった声が記録されている。
日本航空は2006年(平成18年)4月24日に安全啓発センターを開設した(2013年12月に羽田の整備センター内へ移転)。123便の後部胴体や垂直尾翼、後部圧力隔壁の残骸、ボイスレコーダー、乗客が家族に残した手紙などを展示し、社員教育と航空安全の啓発に使われている。事前予約制で一般にも公開されている。
救助のあり方も問い直された。群馬県が残した記録は、急峻な山岳地帯で墜落現場の確認に長時間を要したことを踏まえ、夜間に航空機を使う捜索の充実、県がより強い調整機能を持つ体制、国レベルの調整機関を現地に置くことの必要性を課題として挙げている。経費の最終的な負担についての考え方が確立していない点も指摘された。
文化の面でも影響は大きい。上毛新聞の記者として事故報道にあたった横山秀夫は、地方新聞社を舞台にした『クライマーズ・ハイ』を書いた。山崎豊子の『沈まぬ太陽』も、この事故を作品の重要な場面として扱っている。
墜落現場付近の地図
戦後の主な航空機事故
第二次世界大戦後に日本で発生した事故、日本の航空会社が起こした事故、および世界の主要な航空機事故を、発生順に並べる。死者数は各事故の調査結果や報道で示されている値である。
| 発生年月日 | 事故名(便名) | 機種 | 場所 | 死者数 |
|---|---|---|---|---|
| 1952年4月9日 | もく星号墜落事故(日本航空301便) | マーチン2-0-2 | 東京都・伊豆大島(三原山) | 37名 |
| 1966年2月4日 | 全日空羽田沖墜落事故(全日空60便) | ボーイング727-100 | 東京湾(羽田空港沖) | 133名 |
| 1966年3月4日 | カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故 | ダグラスDC-8-43 | 東京国際空港(羽田空港) | 64名 |
| 1966年3月5日 | 英国海外航空機空中分解事故(BOAC 911便) | ボーイング707-436 | 静岡県御殿場市(富士山麓) | 124名 |
| 1966年11月13日 | 全日空松山沖墜落事故(全日空533便) | YS-11 | 愛媛県・松山空港沖の海上 | 50名 |
| 1971年7月3日 | ばんだい号墜落事故(東亜国内航空63便) | YS-11 | 北海道七飯町・横津岳 | 68名 |
| 1971年7月30日 | 全日空機雫石衝突事故(全日空58便) | ボーイング727-200 | 岩手県雫石町上空 | 162名 |
| 1972年6月14日 | 日本航空ニューデリー墜落事故(471便) | ダグラスDC-8-53 | インド・ニューデリー | 90名(うち地上4名) |
| 1972年11月28日 | 日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故(446便) | ダグラスDC-8-62 | ソ連・モスクワ | 62名 |
| 1974年3月3日 | トルコ航空981便墜落事故 | マクドネル・ダグラスDC-10-10 | フランス・パリ近郊 | 346名 |
| 1977年3月27日 | テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故 | ボーイング747×2機 | スペイン・テネリフェ島 | 583名 |
| 1977年9月27日 | 日本航空クアラルンプール墜落事故(715便) | ダグラスDC-8-62 | マレーシア・クアラルンプール | 34名 |
| 1979年5月25日 | アメリカン航空191便墜落事故 | マクドネル・ダグラスDC-10-10 | アメリカ・シカゴ | 273名(うち地上2名) |
| 1980年8月19日 | サウジアラビア航空163便火災事故 | ロッキードL-1011 | サウジアラビア・リヤド | 301名 |
| 1982年2月9日 | 日本航空350便墜落事故 | ダグラスDC-8-61 | 東京湾(羽田空港沖) | 24名 |
| 1983年9月1日 | 大韓航空機撃墜事件(007便) | ボーイング747-200 | ソ連領空(樺太付近) | 269名 |
| 1985年6月23日 | エア・インディア182便爆破事件 | ボーイング747-200B | 北大西洋(アイルランド沖) | 329名 |
| 1985年8月12日 | 日本航空123便墜落事故 | ボーイング747SR-100 | 群馬県上野村(御巣鷹の尾根) | 520名 |
| 1988年7月3日 | イラン航空655便撃墜事件 | エアバスA300B2 | ホルムズ海峡上空 | 290名 |
| 1988年12月21日 | パンアメリカン航空103便爆破事件 | ボーイング747-100 | イギリス・ロッカビー上空 | 270名(うち地上11名) |
| 1994年4月26日 | 中華航空140便墜落事故 | エアバスA300B4-622R | 愛知県・名古屋空港 | 264名 |
| 1996年11月12日 | ニューデリー空中衝突事故(チャルキ・ダドリ) | ボーイング747-100B/イリューシンIl-76 | インド・ニューデリー西方 | 349名 |
| 2014年7月17日 | マレーシア航空17便撃墜事件 | ボーイング777-200ER | ウクライナ東部 | 298名 |
| 2024年1月2日 | 羽田空港地上衝突事故(日本航空516便) | エアバスA350-900/DHC-8-300 | 東京国際空港(羽田空港) | 5名 |
複数機がかかわった事故は、両機の死者を合計している。地上にいた人の死者を含む場合は、その内訳を括弧内に記した。
参考サイト
- 日本航空123便の御巣鷹山墜落事故に係る航空事故調査報告書についての解説(2011年7月):運輸安全委員会
- 御巣鷹山の日航ジャンボ機の墜落:失敗知識データベース
- ボーイング747SR-100:ぱふぅ家のホームページ
- 航空事故調査報告書(62-2、JA8119):運輸安全委員会
- Japan Air Lines Flight 123, Boeing 747SR-46, JA8119:Federal Aviation Administration
- 日航123便墜落事故対策の記録(1986年3月):群馬県/防災専門図書館
- 8・12連絡会
- 安全啓発センター:日本航空
- 日航機事故の補償問題に関する質問に対する答弁書(1988年8月23日):参議院
- 日航ジャンボ機墜落事故に関する質問主意書(1989年10月19日):参議院
- 公共交通事故被害者等へのヒアリング結果:国土交通省
- 上野村ホームページ:群馬県上野村
参考書籍
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墜落の夏―日航123便事故全記録 | ||
| 著者 | 吉岡忍 | ||
| 出版社 | 新潮社 | ||
| サイズ | 文庫 | ||
| 発売日 | 1989年07月 | ||
| 価格 | 605円(税込) | ||
| ISBN | 9784101163116 | ||
| 1985年8月12日、日航123便ジャンボ機が32分間の迷走の果てに墜落し、急峻な山中に520名の生命が失われた。いったい何が、なぜ、と問う暇もなく、遺族をはじめとする人々は空前のできごとに否応無く翻弄されていく…。国内最大の航空機事故を細密に追い、ジャンボに象徴される現代の巨大システムの本質にまで迫る、渾身のノンフィクション。講談社ノンフィクション賞受賞。 | |||
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日航ジャンボ機墜落―朝日新聞の24時 | ||
| 著者 | 朝日新聞社 | ||
| 出版社 | 朝日新聞出版 | ||
| サイズ | 文庫 | ||
| 発売日 | 1990年08月 | ||
| 価格 | 616円(税込) | ||
| ISBN | 9784022606068 | ||
| 1985年8月12日、日本航空123便ジャンボ機は524人を乗せて群馬県の山中に墜落した。それは新聞社にとっても、以後数十日間続く苛酷なドラマの始まりであった。単独機では史上最多の520人もの死者、意外な事故原因、そして奇跡的な4人の生存者など、さまざまな意味で歴史に残ることになったこの悲劇を、混乱する情報の中で新聞関係者たちはどのように捉え、報道したのか。緊迫の全記録。 | |||
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日航機事故の謎は解けたか 御巣鷹山墜落事故の全貌 | ||
| 著者 | 北村行孝/鶴岡憲一 | ||
| 出版社 | 花伝社 | ||
| サイズ | 単行本 | ||
| 発売日 | 2015年08月 | ||
| 価格 | 2,750円(税込) | ||
| ISBN | 9784763407498 | ||
| 1985年8月12日、520人の尊い命を奪ったジャンボジェット墜落事故から30年。歳月を経たいまだからこそ、語りえた真相と開示された資料ー。いま明かされる8月12日の悲劇、陰謀説や事故の謎に解答を与える決定版。 | |||
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悲しみを抱きしめて 御巣鷹・日航機墜落事故の30年 | ||
| 著者 | 西村 匡史 | ||
| 出版社 | 講談社 | ||
| サイズ | 新書 | ||
| 発売日 | 2015年07月23日頃 | ||
| 価格 | 979円(税込) | ||
| ISBN | 9784062729055 | ||
| 悲劇の事故から30年。深い悲しみの果てに遺族たちがつかんだ一筋の希望。感動秘話●3人の愛娘を失った夫妻の慟哭●慰霊を支えた元零戦乗りの村長●村一番の暴れん坊から「山守」に●遺族から慕われ続けた日航社員●遺族会をまとめあげた母の執念●事故直後に生まれた遺児の感慨●新妻を失った男性の「それから」●あの遺書が自分を育ててくれた●真相究明を続けた事故調査委員……悲しむ人と寄り添う人の感動秘話 悲劇の事故から30年。深い悲しみの果てに遺族たちがつかんだ一筋の希望。感動秘話 ●3人の愛娘を失った夫妻の慟哭 ●慰霊を支えた元零戦乗りの村長 ●村一番の暴れん坊から「山守」に ●遺族から慕われ続けた日航社員 ●遺族会をまとめあげた母の執念 ●事故直後に生まれた遺児の感慨 ●新妻を失った男性の「それから」 ●あの遺書が自分を育ててくれた ●真相究明を続けた事故調査委員 悲しむ人と寄り添う人の感動秘話 はじめに 第1章 もう一度、会いたい 第2章 寄り添う人 第3章 加害者側の良心 第4章 遺族会──失われた命を活かす 第5章 再起する遺族たち 第6章 ある事故調査委員の回想 あとがき 参考文献 | |||
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日航機墜落事故 真実と真相 | ||
| 著者 | 小田周二 | ||
| 出版社 | 文芸社 | ||
| サイズ | 単行本 | ||
| 発売日 | 2015年03月 | ||
| 価格 | 1,980円(税込) | ||
| ISBN | 9784286157290 | ||
この時代の世界
(この項おわり)

