西暦64年7月19日の夜、ローマのチルコ・マッシモ(大競技場)に隣接する商店街から出火したとされる。当時のローマは木造の集合住宅であるインスラが密集し、道幅も狭かったため、火はまたたく間に燃え広がった。鎮火まで6日7晩を要し、市内14区のうち被害を免れたのは4区のみで、3区は完全に焼失した。出火原因は特定されていない。歴史家タキトゥスは失火の可能性を記す一方、ネロ帝による放火を疑う噂も書き残している。

出火当時、ネロ帝は避暑地アンティウムに滞在していたが、報せを受けて急ぎ首都へ戻った。公共の建築物や自らの庭園を被災者に開放し、周辺都市から食料を運ばせて価格を引き下げるなど、救援策を講じた。復興にあたっては、道幅を広げ、建物の高さを制限し、耐火性の石材の使用を義務づけるなど、防火を重視した都市計画を進めた。一方で、焼け跡の広大な土地に大宮殿黄金宮殿(ドムス・アウレア)を建てたため、放火の疑いをいっそう深めることになった。
出火当時、ネロ帝は避暑地アンティウムに滞在していたが、報せを受けて急ぎ首都へ戻った。公共の建築物や自らの庭園を被災者に開放し、周辺都市から食料を運ばせて価格を引き下げるなど、救援策を講じた。復興にあたっては、道幅を広げ、建物の高さを制限し、耐火性の石材の使用を義務づけるなど、防火を重視した都市計画を進めた。一方で、焼け跡の広大な土地に大宮殿黄金宮殿(ドムス・アウレア)を建てたため、放火の疑いをいっそう深めることになった。
皇帝ネロ(イメージ)
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ローマ大火の際、「ネロは燃えさかる街を眺めながら竪琴を弾き、トロイア陥落の詩を歌った」という逸話が知られる。ただしこれは後世の脚色を含み、事実かどうかは定かでない。大火後、ネロは復興費用や黄金宮殿の建設費を賄うため、属州への重税や貨幣の改鋳(金銀含有量の切り下げ)を行い、民衆の不満を招いた。68年、各地で反乱が起き、元老院から国家の敵と宣告されたネロは、逃亡先で自害した。享年30。これによりユリウス・クラウディウス朝は断絶した。
使徒ペテロとパウロ(イメージ)
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キリスト教徒が敵視された背景には、彼らがローマ皇帝崇拝や伝統的な多神教の神々への礼拝を拒んだことがある。ローマでは、皇帝や国家の神々を祀ることが共同体への忠誠の証とされていた。これを拒むキリスト教徒は、無神論者、反社会的な集団とみなされた。また、彼らが夜間に集まって儀式(聖餐)を行うことから、人肉を食べる、近親相姦を行うといった根拠のない噂も広まった。こうした誤解が、迫害を正当化する口実として使われた。
ネロによる弾圧は一時的なもので、以後の迫害も皇帝や地域によってばらつきがあった。しかしキリスト教が各地に広まると、帝国は組織的な弾圧に乗り出す。3世紀にはデキウス帝が全住民に神々への供犠を命じ(250年)、応じない信者を処刑した。さらにディオクレティアヌス帝は、当初は融和的であったが、303年、聖職者の逮捕と信者の改宗を迫る勅令を発した。全土で数千人が処刑されたこの弾圧は、キリスト教史で最後の大迫害と呼ばれている。

迫害にもかかわらず信者は増え続け、ついに帝国は方針を転換する。313年、西方帝コンスタンティヌス1世と東方帝リキニウスが連名で信仰の自由を保障するミラノ勅令を公布し、キリスト教を公認した。さらに380年にはテオドシウス1世がキリスト教を事実上の国教とした。大火の際に身代わりとして迫害された宗教が、約300年を経て帝国を支える宗教へと変わったのである。
迫害にもかかわらず信者は増え続け、ついに帝国は方針を転換する。313年、西方帝コンスタンティヌス1世と東方帝リキニウスが連名で信仰の自由を保障するミラノ勅令を公布し、キリスト教を公認した。さらに380年にはテオドシウス1世がキリスト教を事実上の国教とした。大火の際に身代わりとして迫害された宗教が、約300年を経て帝国を支える宗教へと変わったのである。
参考サイト
この時代の世界
(この項おわり)

皇帝ネロは陣頭指揮を執り、放火の罪でキリスト教徒を処刑した。この処刑がローマ帝国による最初のキリスト教徒弾圧とされている。