ポンペイ遺跡
ポンペイの歴史
ポンペイ最盛期の想像図
AI生成コンテンツ / AI-generated content
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ポンペイは、はじめにオスキ人が集落を築き、前8世紀ごろにギリシア人の植民によって都市として発展した。前526年にエトルリア人に支配されるが、前474年にギリシア人が奪回し、城壁を持つ計画都市を築いた。その後ローマの支配下に入り、前87年に自治市、前80年には植民市に昇格する。豊かな農地とワイン、魚醤(ガルム)の生産で栄え、噴火当時の人口は約2万人に達していたとされる。遺跡には剣闘士の闘技場や公共浴場、複数の神殿が整然と配置され、当時の都市計画の高さがうかがえる。住民の多くは商業や交易に携わり、地中海各地との交流によって富を蓄えていた。
ヴェスヴィオ火山の活動史
ヴェスヴィオ火山噴火時のポンペイの想像図
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ヴェスヴィオ山は標高1,281メートルの複合成層火山で、周囲をソンマ山という外輪山が取り巻く。約2万2千年前の噴火でカルデラが形成され、以降も9700年(令和7682年)前や4300年前に巨大なプリニー式噴火を繰り返してきた。西暦63年には前兆となる大地震が周辺を襲い、79年8月、火山爆発指数5の大噴火が発生し、火砕流でポンペイなどが埋没した。その後も1631年(寛永8年)、1906年、1944年(昭和19年)と噴火を繰り返したが、1944年(昭和19年)を最後に沈黙しており、現在は24時間体制で観測が続けられている。
再発見されるまでの状況
埋没後長らく忘れられていたポンペイだが、1592年(天正20年)、建築家ドメニコ・フォンターナが運河工事中に遺跡の一部を掘り当てたのが最初の発見とされる。本格的な発掘は、隣接するヘルクラネウムの遺跡発見を契機に、ナポリ王カルロ(のちのスペイン王カルロス3世)の主導で1748年(延享5年)に始まった。当初は宝探しに近い性格の発掘だったが、1860年代に考古学者ジュゼッペ・フィオレッリが着任すると、火山灰の空洞に石膏を流し込んで犠牲者の姿を再現する手法が確立され、学術的な調査へと発展した。
再発見後の知見
参考サイト
- ポンペイを壊滅させたベスビオ噴火はいつ起きた?:ナショナルジオグラフィック
- 古代都市ポンペイはどのように消え、いつ発見されたのか:ARTnews JAPAN
- ポンペイの犠牲者のDNA分析で従来説を覆す新たな発見:ARTnews JAPAN
この時代の世界
(この項おわり)

1748年(延享5年)にポンペイが再発見され、発掘が続いた。