西暦1825年 - 「四谷怪談」の初演

忠臣蔵の外伝だった
東海道四谷怪談『神谷伊右エ門 於岩のばうこん』(歌川国芳)
東海道四谷怪談『神谷伊右エ門 於岩のばうこん』(歌川国芳)
文政8年7月26日(1825年9月8日)、江戸・堺町の中村座で、四世鶴屋南北 (つるやなんぼく) 作の歌舞伎狂言『東海道四谷怪談 (とうかいどうよつやかいだん) 』が初演された。南北71歳の作品で、三代目尾上菊五郎がお岩・小仏小平・佐藤与茂七の3役、七代目市川團十郎が民谷伊右衛門を演じた。

物語は「仮名手本忠臣蔵 (かなでほんちゅうしんぐら) 」の外伝という形で書かれた。主君の仇討ちへ向かう義士たちを表に置く『忠臣蔵』に対し、浪人となって私欲のために悪事を重ねる伊右衛門らを裏側に配し、同じ世界の光と影を描いている。

初演日を記念し、毎年7月26日は「幽霊の日」とされている。

目次

あらすじ

塩冶家の浪人・民谷伊右衛門は、妻お岩の父・四谷左門を殺しておきながら、仇を討つと偽ってお岩との復縁を果たす。左門のもう一人の娘・お袖に横恋慕する直助権兵衛も、お袖の夫・佐藤与茂七と取り違えて別人を殺し、仇討ちへの協力を口実にお袖へ近づく。

出産後のお岩は病み、暮らしも困窮する。隣家の伊藤喜兵衛は孫娘のお梅を伊右衛門へ嫁がせるため、薬と称して毒をお岩に飲ませる。顔が醜く腫れ上がり、夫の裏切りを知ったお岩は、もみ合ううちに刀で喉を傷つけて死ぬ。伊右衛門は薬を盗んだ小仏小平も殺し、2人の遺体を戸板の表裏へ打ち付けて川へ流す。

お梅との祝言の夜、伊右衛門はお岩の亡霊に惑わされ、お梅と喜兵衛を斬り殺す。その後もお岩と小平の亡霊が現れて伊右衛門を追い詰める。一方、お袖は直助と夫婦になるが、実は2人が異母兄妹だったと判明し、直助は自害する。最後は与茂七が伊右衛門を討ち、塩冶家の仇討ちへ向かう。

初演時の趣向

初演は、人気狂言『仮名手本忠臣蔵』と組み合わせた二日替りの趣向だった。両作の人物と事件を交差させ、同じ俳優が『忠臣蔵』側と『四谷怪談』側の役を兼ねた。観客は2日間で、忠義と仇討ちの表舞台、その陰で進む裏切りと殺人を一続きの物語として楽しんだ。

三代目尾上菊五郎が、お岩・小仏小平・佐藤与茂七を早替りで演じたことも大きな見どころだった。髪を梳くたびにお岩の髪が抜ける「髪梳き」、戸板の表裏に打ち付けられたお岩と小平を一人で瞬時に演じ分ける「戸板返し」、燃える提灯から亡霊が現れる「提灯抜け」、人を仏壇へ引き込む「仏壇返し」など、外連 (けれん) と呼ばれる大胆な仕掛けが用いられた。

こうした仕掛けは南北一人の発案ではなく、息子の直江重兵衛、菊五郎、大道具方の十一代目長谷川勘兵衛らの工夫によって舞台化されたと伝わる。初演年に南北が実見した流死体や、男女を戸板に釘付けにして川へ流したという巷説など、当時の事件や噂も作劇へ取り込まれた。

『於岩稲荷由来書上』との関係

お岩の「実話」としてよく紹介されるのが、1827年(文政10年)に幕府へ提出された『於岩稲荷由来書上] (おいわいなりゆらいのかきあげ) 』である。そこでは、お岩は夫・田宮伊右衛門と力を合わせて傾いた家を再興し、屋敷内の稲荷を信仰した貞淑な女性として語られる。毒殺されて怨霊となる芝居のお岩とは正反対である。

注意したいのは、この書上が『東海道四谷怪談』初演の2年後に成立している点である。したがって、この文書をそのまま南北作品の元になった同時代史料とはできない。むしろ初演後に高まった関心を背景に、於岩稲荷側が従来の由緒と貞女お岩の像を書き留め、芝居の怨霊像と区別しようとした可能性も考えられる。両者の先後と影響関係は慎重に扱う必要がある。

『四谷雑談集』にまつわる話

-四谷雑談集 (よつやぞうだんしゅう) 』は、1727年(享保12年)の奥書を持つ作者不詳の実録風怪談で、『東海道四谷怪談』よりおよそ100年前のお岩伝説を伝える。伊右衛門が妻お岩を疎んじ、別の女と結ばれるためにお岩を家から追い出すと、お岩は行方不明となり、関係する家々に怪死が続いて田宮家も断絶する、という筋である。

顔を毒で崩される場面や戸板返しなどはなく、南北の作品と同じ物語ではない。それでも、夫の裏切り、失踪した妻の怨念、家の断絶という骨格が共通するため、南北が参照した有力な素材とみられている。なお、現存写本の成立や伝来をめぐっては検討の余地があり、「1727年(享保12年)に現在の形の全文が確定した」とまでは断定できない。

お岩稲荷

東京都新宿区左門町の於岩稲荷田宮神社於岩稲荷田宮神社 (おいわいなりたみやじんじゃ) は、田宮家の屋敷神だった稲荷社を起源とする。伝承上のお岩は、夫と協力して家を再興した働き者で、信仰していた稲荷が「お岩さんの稲荷」と呼ばれて人々の崇敬を集めた。芝居の怨霊お岩とは異なる貞女・守護者の姿である。

1879年(明治12年)の火災後、田宮家は東京・新川にも社を再建した。このため現在は、四谷左門町と中央区新川に於岩稲荷田宮神社がある。四谷では隣接する陽運寺にもお岩を祀る祠があり、しばしば一緒に紹介されるが、田宮神社と陽運寺は別の宗教法人である。

『四谷怪談』を上演する俳優や関係者がお岩稲荷へ参拝し、興行の安全と成功を祈る習わしは現在もよく知られている。「参拝しないと祟りがある」という話も広まったが、これは芝居の人気と信仰が結び付いて育った伝承として捉えるのが妥当だろう。

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