天保の大飢饉
目次
冷夏・大雨・洪水が重なる
穂が実らないまま夏が終わった
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天保4年(1833年)、春から夏にかけて全国が冷夏と大雨に見舞われた。夏になっても気温が上がらず、東北地方や関東地方を中心に冷害が広がる。さらに大雨による洪水が田畑を押し流し、収穫は壊滅的な打撃を受けた。

ひどい年には、農作物の収穫高が例年の3割程度まで落ち込んだという。
ひどい年には、農作物の収穫高が例年の3割程度まで落ち込んだという。
火山噴火と世界的な気候変化
19世紀の前半は、太陽活動が低調な時期にあたっていた。加えて、火山の大噴火によって成層圏に広がった硫酸の細かい粒が日光をさえぎり、地表の気温を下げる「日傘効果」も重なったと考えられている。

1815年(文化12年)のインドネシア・タンボラ山の噴火は、有史以来最大級の噴火である。翌1816年、ヨーロッパと北米は「夏のない年」と呼ばれる異常な冷夏に見舞われた。この噴火の影響は数年で薄れたとされるが、19世紀前半の寒冷傾向を作った背景の一つに数えられている。

飢饉の時期により直接関わるのが、1835年(天保6年)1月に中米・ニカラグアで起きたコシグイナ山の大噴火である。仙台藩士・花井安列の日記には、1835年4月の項に「このところ日の出が赤い」という記述がある。朝焼けが異常に赤くなるのは、空の高いところに火山灰や微粒子が漂っているときに起きる現象である。地球のほぼ裏側で起きた噴火が、日本の空を変え、冷害を悪化させた可能性が指摘されている。
1815年(文化12年)のインドネシア・タンボラ山の噴火は、有史以来最大級の噴火である。翌1816年、ヨーロッパと北米は「夏のない年」と呼ばれる異常な冷夏に見舞われた。この噴火の影響は数年で薄れたとされるが、19世紀前半の寒冷傾向を作った背景の一つに数えられている。
飢饉の時期により直接関わるのが、1835年(天保6年)1月に中米・ニカラグアで起きたコシグイナ山の大噴火である。仙台藩士・花井安列の日記には、1835年4月の項に「このところ日の出が赤い」という記述がある。朝焼けが異常に赤くなるのは、空の高いところに火山灰や微粒子が漂っているときに起きる現象である。地球のほぼ裏側で起きた噴火が、日本の空を変え、冷害を悪化させた可能性が指摘されている。
買い占めと備蓄米の不足
凶作そのものよりも人々を追い詰めたのは、米の値段だった。米不足が伝わると、米問屋や豪商による買い占めと売り惜しみが横行する。手元に米を抱えたまま出荷を絞れば、値はいくらでも上がる。米価は平年の数倍にまで跳ね上がった。

背景には、江戸時代後期の商品経済の発達がある。年貢米が市場で売買される仕組みができあがった結果、米は「食べもの」であると同時に「値上がりを待つ商品」にもなっていた。

一方、救う側の力は弱まっていた。幕府も諸藩も財政が窮乏し、非常時に備えるはずの義倉や郷蔵の備蓄米が不足していたのである。

ただし、事前の備えで犠牲者を出さなかった藩もある。田原藩では家老の渡辺崋山が『凶荒心得書』を著し、役人の綱紀粛正と倹約、民衆救済の優先を説いて義倉を整備した。米沢藩も、50年前の天明の大飢饉の教訓から義倉を整え、救荒食の手引書『かてもの』を作って領民に配っていた。
背景には、江戸時代後期の商品経済の発達がある。年貢米が市場で売買される仕組みができあがった結果、米は「食べもの」であると同時に「値上がりを待つ商品」にもなっていた。
一方、救う側の力は弱まっていた。幕府も諸藩も財政が窮乏し、非常時に備えるはずの義倉や郷蔵の備蓄米が不足していたのである。
ただし、事前の備えで犠牲者を出さなかった藩もある。田原藩では家老の渡辺崋山が『凶荒心得書』を著し、役人の綱紀粛正と倹約、民衆救済の優先を説いて義倉を整備した。米沢藩も、50年前の天明の大飢饉の教訓から義倉を整え、救荒食の手引書『かてもの』を作って領民に配っていた。
1833年の発生から1836年のピークへ
天保4年(1833年)、仙台藩をはじめとする東北地方で大冷害が発生した。米の収穫量は平年の数分の一に激減する。仙台藩は新田開発を進めて100万石を超える実高を持っていたが、米作に偏った政策をとっていたため、かえって被害が甚大になった。

領内では藩札の信用が落ち、小判が使われるようになったことで市中の現金が不足し、物価が高騰する悪性のインフレに陥った。藩は城下の商人に他藩からの米の買い付けを依頼し、領内に店を出していた近江商人の中井家に2万両の確保を頼むなど、民間の財力に依存せざるをえなかった。

天保7年(1836年)、全国規模で再び大凶作となる。被害は西日本、中部、関東へと拡大し、米価は平年の数倍から10倍近くまで暴騰した。飢饉はこの1836年から1837年にかけて最大規模になる。
領内では藩札の信用が落ち、小判が使われるようになったことで市中の現金が不足し、物価が高騰する悪性のインフレに陥った。藩は城下の商人に他藩からの米の買い付けを依頼し、領内に店を出していた近江商人の中井家に2万両の確保を頼むなど、民間の財力に依存せざるをえなかった。
天保7年(1836年)、全国規模で再び大凶作となる。被害は西日本、中部、関東へと拡大し、米価は平年の数倍から10倍近くまで暴騰した。飢饉はこの1836年から1837年にかけて最大規模になる。
疫病の流行と流民の都市流入
村を捨てた人々が都市に流れ込んだ
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農村では、草の根や樹皮を食べて飢えをしのぐ事態となった。栄養不足で体力の落ちた人々のあいだに腸チフスとみられる疫病が広がり、犠牲者が急増する。大坂では毎日150人から200人を超える餓死者が出ていたという。

食料を求めて村を捨てた流民が、江戸や大坂に殺到した。
食料を求めて村を捨てた流民が、江戸や大坂に殺到した。
流民の流入で、都市の治安と衛生状態は極度に悪化した。幕府は救済のため、江戸の市中21か所に御救小屋を設けている。収容できるのは5800人ほどだったが、救済を求めた者は70万人を超えた。

京都では、東町奉行組与力・平塚瓢斎が発案し、鳩居堂主人の熊谷直恭らの協力を得て、鴨川の三条大橋南に御救小屋を設けた。天保8年(1837年)正月から翌年3月までに1480余人の流民を救ったが、うち974人は亡くなり寺院に埋葬されている。

餓死を逃れようと、密かに蝦夷地(現在の北海道)へ渡る者も現れ、箱館方面の人口が増えた。渡ってきた者には、いったん保護したうえで1人につき米1升と銭200文を与えて帰らせる対策がとられたが、そのまま住み着く者もいた。

餓死と疫病による死者は、全国で20万人から30万人にのぼると推定されている。東北地方には、犠牲者を弔うための叢塚が今も残る。
京都では、東町奉行組与力・平塚瓢斎が発案し、鳩居堂主人の熊谷直恭らの協力を得て、鴨川の三条大橋南に御救小屋を設けた。天保8年(1837年)正月から翌年3月までに1480余人の流民を救ったが、うち974人は亡くなり寺院に埋葬されている。
餓死を逃れようと、密かに蝦夷地(現在の北海道)へ渡る者も現れ、箱館方面の人口が増えた。渡ってきた者には、いったん保護したうえで1人につき米1升と銭200文を与えて帰らせる対策がとられたが、そのまま住み着く者もいた。
餓死と疫病による死者は、全国で20万人から30万人にのぼると推定されている。東北地方には、犠牲者を弔うための叢塚が今も残る。
打ちこわしと百姓一揆
米価高騰に怒った人々が米屋を襲った
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大塩平八郎の乱と生田万の乱
元与力・大塩平八郎が大坂で挙兵した
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天保の改革と幕藩体制の動揺
相次ぐ一揆と反乱に危機感を強めた幕府は、天保12年(1841年)から老中・水野忠邦のもとで天保の改革に着手する。質素倹約の徹底、物価引き下げをねらった株仲間の解散、都市に流入した農民を村へ帰す人返しの令などが柱だった。

しかし、株仲間の解散はかえって流通を混乱させて物価を上げ、人返しの令も実効性に乏しかった。江戸・大坂周辺を幕府直轄地にする上知令は大名や旗本の反発を招き、水野は1843年に失脚する。改革はわずか2年余りで失敗に終わった。

一方、藩レベルでは事情が違った。薩摩藩や長州藩のように、専売制や負債整理によって財政を立て直し、力を蓄えた藩が現れる。財政破綻した幕府や弱小藩との差は、この時期にはっきりと開いた。

天保の大飢饉は、幕藩体制を支えていた前提——凶作のときは幕府と藩が民を救う、という仕組みが、もはや機能しないことを示した。この動揺は、30年後の明治維新へとつながっていく。

なお、東北から北陸、山陰の日本海側、近畿から四国にかけての方言に、「大変な」「とてつもない」を意味する「てんぽな」「てんぽ」という言い方が残る。天保の飢饉に由来するともいわれ、言葉のなかに残った大飢饉の記憶である。
しかし、株仲間の解散はかえって流通を混乱させて物価を上げ、人返しの令も実効性に乏しかった。江戸・大坂周辺を幕府直轄地にする上知令は大名や旗本の反発を招き、水野は1843年に失脚する。改革はわずか2年余りで失敗に終わった。
一方、藩レベルでは事情が違った。薩摩藩や長州藩のように、専売制や負債整理によって財政を立て直し、力を蓄えた藩が現れる。財政破綻した幕府や弱小藩との差は、この時期にはっきりと開いた。
天保の大飢饉は、幕藩体制を支えていた前提——凶作のときは幕府と藩が民を救う、という仕組みが、もはや機能しないことを示した。この動揺は、30年後の明治維新へとつながっていく。
なお、東北から北陸、山陰の日本海側、近畿から四国にかけての方言に、「大変な」「とてつもない」を意味する「てんぽな」「てんぽ」という言い方が残る。天保の飢饉に由来するともいわれ、言葉のなかに残った大飢饉の記憶である。
参考サイト
- 天保の飢饉:コトバンク
- 生田万の乱:コトバンク
- 災害と仙台 江戸時代・天保の古文書から(2)飢饉 人心すさみ疫病流行:河北新報オンラインニュース
- 災害と仙台 江戸時代・天保の古文書から(3)民の力 有力商人に支援要請:河北新報オンラインニュース
- 江戸の飢饉、巨大噴火の影 気温低下で凶作、人災も一因:日本経済新聞
- 高橋眞一「江戸後期から明治前期までの年齢別人口および出生率・死亡率の推計」:島根大学学術情報リポジトリ
- 菊池勇夫「江戸に向かう奥羽飢人:天保七・八年を中心に」:西南学院大学
- 高木正朗・森田潤司「飢餓と栄養供給:一九世紀中期東北地方の一農村」:国際日本文化研究センター
- 「天保の大飢饉」とその救荒:三重県
- 生田萬の墓碑:柏崎観光協会
この時代の世界
(この項おわり)

冷害や洪水が頻繁に起き、とくに米所である東北地方——陸奥国と出羽国の被害が大きかった。各地で多数の餓死者を出す一方で、米価は急騰し、百姓一揆や打ちこわしが頻発した。
1833年からの5年間で、日本の推計人口は3198万人から3073万人へと125万人減少している。