モリソン号事件
モリソン号事件(イメージ)
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モリソン号は大砲を積んでいない非武装の商船で、乗っていたのは商人と宣教師であった。幕府がその事実を知ったのは翌1838年、長崎のオランダ商館がもたらした風説書によってである。
また、船名の「モリソン」が、中国で活動したイギリス人宣教師ロバート・モリソンにちなむものだと知られておらず、来航した人物の名と受け取ったまま議論が進んだため、幕府内では事件の性格がつかみにくかった。
また、船名の「モリソン」が、中国で活動したイギリス人宣教師ロバート・モリソンにちなむものだと知られておらず、来航した人物の名と受け取ったまま議論が進んだため、幕府内では事件の性格がつかみにくかった。
異国船打払令への疑問
異国船打払令は1825年に出された法令で、中国・朝鮮・琉球・オランダ以外の船は見つけしだい砲撃し、上陸した者は捕縛または射殺せよ、というものである。有無を言わさず打ち払うことから「無二念打払令」とも呼ばれた。
背景には、1808年、イギリス軍艦が長崎港に侵入したフェートン号事件や、日本近海にたびたび現れるイギリス・アメリカの捕鯨船があった。

しかし、漂流民の送還という人道的な目的で来た船まで砲撃することには、幕府の内外から疑問の声が上がった。
第一に、外国の船を無差別に撃てば報復を招く。第二に、日本の海防はそれに耐えられるほど強くない。第三に、自国民を送り届けてくれた相手を撃つ行為は、国際的に日本の評判を落とす。この三点が、渡辺崋山や高野長英らが繰り返し指摘した論点である。
背景には、1808年、イギリス軍艦が長崎港に侵入したフェートン号事件や、日本近海にたびたび現れるイギリス・アメリカの捕鯨船があった。
しかし、漂流民の送還という人道的な目的で来た船まで砲撃することには、幕府の内外から疑問の声が上がった。
第一に、外国の船を無差別に撃てば報復を招く。第二に、日本の海防はそれに耐えられるほど強くない。第三に、自国民を送り届けてくれた相手を撃つ行為は、国際的に日本の評判を落とす。この三点が、渡辺崋山や高野長英らが繰り返し指摘した論点である。
蘭学者・知識人のネットワーク
尚歯会(イメージ)
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批判書の発行
モリソン号事件を知った崋山と長英は、1838年、それぞれ批判の文章を書いた。
高野長英の『戊戌夢物語』は、夢のなかで人々が海外事情を論じる、という体裁をとっている。イギリスの実力を説明したうえで、漂流民を送り届けに来た船を打ち払えば相手の怒りを買い、日本は戦争に巻き込まれると警告した。写本の形で江戸の知識人のあいだに広まった。

渡辺崋山の『慎機論』は、幕府の対外政策と、海外情勢を知ろうとしない役人の見識のなさを直接的に批判した文章である。崋山は内容が過激であることを自覚しており、公表せず草稿のまま手元に置いていた。
しかし、この未公表の草稿が、のちに崋山を追い詰める証拠として使われることになる。
高野長英の『戊戌夢物語』は、夢のなかで人々が海外事情を論じる、という体裁をとっている。イギリスの実力を説明したうえで、漂流民を送り届けに来た船を打ち払えば相手の怒りを買い、日本は戦争に巻き込まれると警告した。写本の形で江戸の知識人のあいだに広まった。
渡辺崋山の『慎機論』は、幕府の対外政策と、海外情勢を知ろうとしない役人の見識のなさを直接的に批判した文章である。崋山は内容が過激であることを自覚しており、公表せず草稿のまま手元に置いていた。
しかし、この未公表の草稿が、のちに崋山を追い詰める証拠として使われることになる。
幕府による弾圧
鳥居耀蔵は、幕府の学問所を預かる儒学者林述斎の子である。朱子学を唯一の正統とする立場から蘭学者を敵視していた。加えて、江戸湾の海防測量をめぐって江川英龍と対立しており、英龍の助言役であった崋山を排除する動機があったとされる。

家宅捜索で見つかった『慎機論』の草稿が証拠とされ、渡辺崋山は国元の田原(現・愛知県田原市)での蟄居、高野長英は永牢(期限を定めない投獄)を申し渡された。小関三英は捕縛される前に自害している。
一方、江川英龍は処罰を免れ、川路聖謨も罪に問われなかった。処罰の範囲は、鳥居が標的と定めた人物にほぼ限られている。
家宅捜索で見つかった『慎機論』の草稿が証拠とされ、渡辺崋山は国元の田原(現・愛知県田原市)での蟄居、高野長英は永牢(期限を定めない投獄)を申し渡された。小関三英は捕縛される前に自害している。
一方、江川英龍は処罰を免れ、川路聖謨も罪に問われなかった。処罰の範囲は、鳥居が標的と定めた人物にほぼ限られている。
言論・西洋研究への萎縮効果
蛮社の獄が残したのは、二人の学者への処罰だけではない。西洋の知識をもとに幕府の政策を論じること自体が罪に問われうる、という前例をつくった点が大きい。
以後、蘭学者は海防や外交といった政治にかかわる分野を論じることを避け、医学・天文学・砲術など実用の領域に研究をとどめる傾向を強めた。尚歯会は解散し、身分や藩を越えて海外情報を交換する場は失われた。

ただし、弾圧が西洋への関心そのものを消したわけではない。江川英龍は処罰を免れ、のちに伊豆韮山で反射炉の建設を進め、韮山塾で洋式砲術を教えた。高野長英が逃亡中も続けた兵書の翻訳は、幕末の洋学に引き継がれている。
研究の場が公から私へ移り、幕府の目の届かないところで蓄積が続いた、と見ることもできる。
以後、蘭学者は海防や外交といった政治にかかわる分野を論じることを避け、医学・天文学・砲術など実用の領域に研究をとどめる傾向を強めた。尚歯会は解散し、身分や藩を越えて海外情報を交換する場は失われた。
ただし、弾圧が西洋への関心そのものを消したわけではない。江川英龍は処罰を免れ、のちに伊豆韮山で反射炉の建設を進め、韮山塾で洋式砲術を教えた。高野長英が逃亡中も続けた兵書の翻訳は、幕末の洋学に引き継がれている。
研究の場が公から私へ移り、幕府の目の届かないところで蓄積が続いた、と見ることもできる。
開国への予兆
蛮社の獄の翌1840年、清とイギリスのあいだでアヘン戦争がはじまる。清は敗れ、1842年の南京条約で香港を割譲し、5港を開いた。長英が『戊戌夢物語』で示した見通しは、隣国で現実のものとなった。

この報せをオランダ風説書などで受け取った幕府は、1842年、異国船打払令を撤回し、来航した外国船には薪・水・食料を与えて退去させる薪水給与令(天保の薪水給与令)へ改めた。
これは開国を決めたものではなく、戦争を避けるための方針転換である。それでも、1825年以来の打ち払い方針が17年で改められた事実は、崋山や長英の批判が的外れでなかったことを示している。ペリーが浦賀に来航するのは、蛮社の獄から14年後の1853年である。
この報せをオランダ風説書などで受け取った幕府は、1842年、異国船打払令を撤回し、来航した外国船には薪・水・食料を与えて退去させる薪水給与令(天保の薪水給与令)へ改めた。
これは開国を決めたものではなく、戦争を避けるための方針転換である。それでも、1825年以来の打ち払い方針が17年で改められた事実は、崋山や長英の批判が的外れでなかったことを示している。ペリーが浦賀に来航するのは、蛮社の獄から14年後の1853年である。
参考サイト
- 蛮社の獄:コトバンク
- モリソン号事件:コトバンク
- 薪水給与令:コトバンク
- 蛮社の獄(ばんしゃのごく):ヒストリスト(山川出版社)
- モリソン号事件(モリソンごうじけん):ヒストリスト(山川出版社)
- 6.蛮社の獄(高野長英の生涯):奥州市
- 激動幕末 Ⅱ.アヘン戦争の戦慄:国立公文書館
- 西暦1837年 - 大塩平八郎の乱:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦1828年 - シーボルト事件:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦1840年 - アヘン戦争:ぱふぅ家のホームページ
参考書籍
この時代の世界
(この項おわり)


当時の幕府は儒学の中でも朱子学のみを正統な学問としており、林羅山からはじまる林家の流れをくむ幕臣の鳥居耀蔵が暗躍し、蘭学を厳しく取り締まった。これが「蛮社の獄」である。