人は皆 (1837) 助ける大塩の乱
大塩平八郎(中斎)
大塩平八郎という人物
私塾・洗心洞で門人に講義する大塩(イメージ)
AI生成コンテンツ / AI-generated content
AI生成コンテンツ / AI-generated content
大塩平八郎(1793-1837)は、大坂天満に生まれた。諱は後素、号は中斎。大塩家は代々、大坂東町奉行所の与力を務める家柄で、平八郎は8代目にあたる。

14歳で与力見習いとして出仕し、25歳で与力となった。
14歳で与力見習いとして出仕し、25歳で与力となった。
奉行所時代の大塩は、汚職を憎み、不正を次々と暴いた。西町奉行所の与力・弓削新右衛門の汚職を内部告発し、隠れキリシタンを摘発し、破戒僧を処断した。大塩はこの3件を自らの「三大功績」と呼んでいる。

1824年(文政7年)、独学で陽明学を修めた大塩は、自宅に私塾洗心洞を開いた。陽明学は、知ることと行うことは切り離せないとする「知行合一」を説く。学んだ正しさは、行動に移してはじめて意味を持つ——この思想が、後の決起につながっていく。

1830年(文政13年)、自分を重用してくれた東町奉行・高井実徳が転勤すると、大塩は38歳で与力を辞し、養子の大塩格之助に跡目を譲って隠居した。以後は洗心洞での子弟の指導に専念する。

その生活は徹底して禁欲的だった。夕方に就寝し、午前2時に起きて天体観測、潔斎と武芸のあと朝食をとり、午前5時から門弟に講義をして、それから出勤する。講義は厳格そのもので、門人たちは緊張のあまり大塩の目を見られなかったという。

一方で、きわめて短気でもあった。歴史家の頼山陽は、大塩の学識を「小陽明」と称賛しつつ、「刀を拭い、時に之を蔵せよ」——刀は磨いてしまっておけ、と直情的な性格を戒めた。西町奉行・矢部定謙の家で食事中、幕政の腐敗に怒るあまり、硬いカナガシラの頭を噛み砕いてしまったという話も残る。探検家の近藤重蔵と会ったときは、互いに「畳の上では死ねない人」という印象を抱いたと伝えられる。
1824年(文政7年)、独学で陽明学を修めた大塩は、自宅に私塾洗心洞を開いた。陽明学は、知ることと行うことは切り離せないとする「知行合一」を説く。学んだ正しさは、行動に移してはじめて意味を持つ——この思想が、後の決起につながっていく。
1830年(文政13年)、自分を重用してくれた東町奉行・高井実徳が転勤すると、大塩は38歳で与力を辞し、養子の大塩格之助に跡目を譲って隠居した。以後は洗心洞での子弟の指導に専念する。
その生活は徹底して禁欲的だった。夕方に就寝し、午前2時に起きて天体観測、潔斎と武芸のあと朝食をとり、午前5時から門弟に講義をして、それから出勤する。講義は厳格そのもので、門人たちは緊張のあまり大塩の目を見られなかったという。
一方で、きわめて短気でもあった。歴史家の頼山陽は、大塩の学識を「小陽明」と称賛しつつ、「刀を拭い、時に之を蔵せよ」——刀は磨いてしまっておけ、と直情的な性格を戒めた。西町奉行・矢部定謙の家で食事中、幕政の腐敗に怒るあまり、硬いカナガシラの頭を噛み砕いてしまったという話も残る。探検家の近藤重蔵と会ったときは、互いに「畳の上では死ねない人」という印象を抱いたと伝えられる。
天保の飢饉と奉行所の対応
1833年(天保4年)から、全国的な天候不順による天保の大飢饉が始まった。飢饉がとくにひどかったのは、1833年秋から翌年夏にかけてと、1836年(天保7年)秋から1837年夏にかけての2つの時期である。

前半の危機は、大坂西町奉行・矢部定謙が大塩を顧問のように遇し、経済に明るい与力を配していたこともあって、大きな混乱なく切り抜けた。

問題は後半である。矢部は勘定奉行に栄転し、東町奉行には跡部良弼が着任していた。跡部は、後に老中として天保の改革を進める水野忠邦の実弟である。

跡部は、新将軍徳川家慶の将軍宣下の儀式にかかる費用と江戸の食料確保のため、大坂から江戸への廻米を強行した。京から5升1斗程度の米を買いに来た者まで召し捕えるほど徹底したため、京都は餓死者であふれ、流民が大坂に流れ込んで市中の治安は悪化した。

大塩は跡部に対し、幕府の蔵米を民に与えること、豪商の買い占めをやめさせることなど、米価安定のための策を繰り返し献策した。だが、いっさい聞き入れられなかった。

そこで大塩は、豪商鴻池善右衛門(9代・幸実)に対し、「貧民に米を買い与えたい。自分と門人の禄米を担保に1万両を貸してほしい」と持ちかける。しかし幸実が跡部に相談したところ「断れ」と命じられ、この話も流れた。

ただし、奉行所がまったく無策だったわけではない、という見方もある。1833年から1837年にかけて、大坂町奉行所は堂島の米取引不正禁止令、米相場抑制令、入津米増加令、他国売り禁止令、小売米価引き下げ令、官米の払い下げなど、打てる手はほぼ打っており、大坂市中の飯米確保はかなりの程度機能していたとする研究がある。跡部自身も、1836年11月の江戸廻米推進令に対しては、大坂の米が流出しすぎないよう手を打ち、江戸から米を買い付けに来た商人には協力を拒んでいる。

それでも米不足は解消しなかった。制度としての施策と、目の前で人が飢え死にしていく現実との落差が、大塩を追い詰めていった。
前半の危機は、大坂西町奉行・矢部定謙が大塩を顧問のように遇し、経済に明るい与力を配していたこともあって、大きな混乱なく切り抜けた。
問題は後半である。矢部は勘定奉行に栄転し、東町奉行には跡部良弼が着任していた。跡部は、後に老中として天保の改革を進める水野忠邦の実弟である。
跡部は、新将軍徳川家慶の将軍宣下の儀式にかかる費用と江戸の食料確保のため、大坂から江戸への廻米を強行した。京から5升1斗程度の米を買いに来た者まで召し捕えるほど徹底したため、京都は餓死者であふれ、流民が大坂に流れ込んで市中の治安は悪化した。
大塩は跡部に対し、幕府の蔵米を民に与えること、豪商の買い占めをやめさせることなど、米価安定のための策を繰り返し献策した。だが、いっさい聞き入れられなかった。
そこで大塩は、豪商鴻池善右衛門(9代・幸実)に対し、「貧民に米を買い与えたい。自分と門人の禄米を担保に1万両を貸してほしい」と持ちかける。しかし幸実が跡部に相談したところ「断れ」と命じられ、この話も流れた。
ただし、奉行所がまったく無策だったわけではない、という見方もある。1833年から1837年にかけて、大坂町奉行所は堂島の米取引不正禁止令、米相場抑制令、入津米増加令、他国売り禁止令、小売米価引き下げ令、官米の払い下げなど、打てる手はほぼ打っており、大坂市中の飯米確保はかなりの程度機能していたとする研究がある。跡部自身も、1836年11月の江戸廻米推進令に対しては、大坂の米が流出しすぎないよう手を打ち、江戸から米を買い付けに来た商人には協力を拒んでいる。
それでも米不足は解消しなかった。制度としての施策と、目の前で人が飢え死にしていく現実との落差が、大塩を追い詰めていった。
決起の準備と「檄文」
板木を32枚に分けて刷られた檄文(イメージ)
AI生成コンテンツ / AI-generated content
AI生成コンテンツ / AI-generated content
檄文は、「四海困窮いたし候はば天禄長く絶えん」——世の中が困窮すれば天から与えられた地位も長くは続かない、という『論語』の一節を引き、役人と豪商の奢りを弾劾する。そのうえで、蜂起に加われば金持ちの蔵の金銀と米を分け与える、と呼びかけるものだった。

資金は自前で用意した。大塩は蔵書5万冊を全て売却し、得た金を近郷の窮民に分け与えている。あわせて、金1朱と交換できる施行札を大坂市中と近在の村に配り、天満で火事が起きたら駆けつけよと伝えた。火災が決起の合図だったのである。

武装の準備も進めた。家財を売り払い、家族を離縁したうえで、大砲などの火器と焙烙玉(爆薬)をそろえる。「打ちこわしが起きたときの鎮圧のため」と称して、与力・同心の門人に砲術を中心とする軍事訓練を施した。大塩自身、若い頃に中島流砲術と[https://www.nihonkobudokyoukai.org/martialarts/053/:titl=佐分利流]槍術を学び、槍では関西一と評された腕前だった。

同時に大塩は、大坂町奉行所の不正と役人の汚職を訴える建議書を書き上げ、江戸の幕閣に送りつけている。そこには、禁じられていた無尽に諸大名が関与し、幕閣がその証拠を隠蔽したという告発が含まれていた。告発された中には、水野忠邦ら当時の現職老中4名が名を連ねていたという。

決起の日は、新任の西町奉行・堀利堅が跡部と連れ立って天満地区を巡検する2月19日と定めた。休憩中の両奉行を大砲で襲撃するという計画である。この計画は前年12月に主要門人へ告げられたが、門人たちは唖然とし、数人は必死に思いとどまるよう説得した。大塩は耳を貸さなかった。賛同できずに距離を置き、乱に加わらなかった門人も多かった。
資金は自前で用意した。大塩は蔵書5万冊を全て売却し、得た金を近郷の窮民に分け与えている。あわせて、金1朱と交換できる施行札を大坂市中と近在の村に配り、天満で火事が起きたら駆けつけよと伝えた。火災が決起の合図だったのである。
武装の準備も進めた。家財を売り払い、家族を離縁したうえで、大砲などの火器と焙烙玉(爆薬)をそろえる。「打ちこわしが起きたときの鎮圧のため」と称して、与力・同心の門人に砲術を中心とする軍事訓練を施した。大塩自身、若い頃に中島流砲術と[https://www.nihonkobudokyoukai.org/martialarts/053/:titl=佐分利流]槍術を学び、槍では関西一と評された腕前だった。
同時に大塩は、大坂町奉行所の不正と役人の汚職を訴える建議書を書き上げ、江戸の幕閣に送りつけている。そこには、禁じられていた無尽に諸大名が関与し、幕閣がその証拠を隠蔽したという告発が含まれていた。告発された中には、水野忠邦ら当時の現職老中4名が名を連ねていたという。
決起の日は、新任の西町奉行・堀利堅が跡部と連れ立って天満地区を巡検する2月19日と定めた。休憩中の両奉行を大砲で襲撃するという計画である。この計画は前年12月に主要門人へ告げられたが、門人たちは唖然とし、数人は必死に思いとどまるよう説得した。大塩は耳を貸さなかった。賛同できずに距離を置き、乱に加わらなかった門人も多かった。
密告、そして大坂の大火
大坂市中の5分の1が焼けた「大塩焼け」(イメージ)
AI生成コンテンツ / AI-generated content
AI生成コンテンツ / AI-generated content
決起の直前、計画は内部から崩れた。2月17日の夜、町目付の平山助次郎が東町奉行・跡部良弼に計画と参加者を密告する。跡部は、参加予定者に奉行所の役人が少なからず含まれていることに驚いた。

翌18日には、同心の吉見九郎右衛門も西町奉行に密告した。
翌18日には、同心の吉見九郎右衛門も西町奉行に密告した。
19日の早朝、今度は門人のうち数名が檄文を持って東町奉行所に駆け込み、決起計画を通報した。奉行所は、泊まり番として詰めていた門人の与力2名を捕縛しようとする。1名は斬られ、1名は大塩邸へ逃げ込んだ。

計画が露見したと知った大塩は、予定を変更して即時決起する。1837年2月19日(新暦3月25日)の朝、自邸に火を放った。

天満橋近くの大塩邸を出た一党は、難波橋を渡って北船場へ進み、三井呉服店や鴻池家といった豪商を襲った。近郷の農民や引き込まれた町民が加わり、勢力は300人ほどに膨れあがる。掲げていたのは「救民」の二文字を大書した旗だった。

だが、豪商の屋敷に大砲や火矢を放った結果、広がったのは火災だけだった。大塩勢は内平野町で奉行所の部隊と衝突してたちまち蹴散らされ、淡路町付近での衝突で壊滅する。決起はわずか半日で鎮圧された。大塩勢の戦死者は3名、巻き込まれて死亡した者15名。奉行所側には負傷者すら出ていない。

被害が甚大だったのは、火のほうである。「大塩焼け」と呼ばれたこの火災は翌20日に鎮火したが、『浮世の有様』などの史料によれば、天満を中心に大坂市中の5分の1が焼失した。当時の大坂の人口約36万人のうち、5分の1にあたる7万人ほどが焼け出され、焼死者は少なくとも270人以上にのぼった。救おうとした民衆を、結果として焼き出してしまったことになる。
計画が露見したと知った大塩は、予定を変更して即時決起する。1837年2月19日(新暦3月25日)の朝、自邸に火を放った。
天満橋近くの大塩邸を出た一党は、難波橋を渡って北船場へ進み、三井呉服店や鴻池家といった豪商を襲った。近郷の農民や引き込まれた町民が加わり、勢力は300人ほどに膨れあがる。掲げていたのは「救民」の二文字を大書した旗だった。
だが、豪商の屋敷に大砲や火矢を放った結果、広がったのは火災だけだった。大塩勢は内平野町で奉行所の部隊と衝突してたちまち蹴散らされ、淡路町付近での衝突で壊滅する。決起はわずか半日で鎮圧された。大塩勢の戦死者は3名、巻き込まれて死亡した者15名。奉行所側には負傷者すら出ていない。
被害が甚大だったのは、火のほうである。「大塩焼け」と呼ばれたこの火災は翌20日に鎮火したが、『浮世の有様』などの史料によれば、天満を中心に大坂市中の5分の1が焼失した。当時の大坂の人口約36万人のうち、5分の1にあたる7万人ほどが焼け出され、焼死者は少なくとも270人以上にのぼった。救おうとした民衆を、結果として焼き出してしまったことになる。
40日の潜伏と自決
包囲された靱油掛町の隠れ家
AI生成コンテンツ / AI-generated content
AI生成コンテンツ / AI-generated content
その建議書は、江戸には届いたものの、大坂町奉行所の差し戻し命令によって宛先には渡らなかった。しかも差し戻しの途中、箱根関で発見されて押収されてしまう。

押収の経緯もひどいものだった。書簡を運んでいた飛脚が、中に金品が入っていると思って箱根の山中で開封し、金がないと知るや道端に捨ててしまったのである。拾った者から韮山代官江川英龍のもとに届けられ、内容の重大さに気づいた江川が箱根関に通報した。腐敗を告発する文書が、腐敗によって握り潰されたことになる。

失意のまま大坂に戻った大塩父子は、以前から出入りのあった商人・美吉屋五郎兵衛の店(現在の大阪市西区靱油掛町付近)の裏庭にある隠居宅に匿われた。

露見のきっかけは、些細なことだった。美吉屋の女中が帰郷した折に「主人夫妻が神棚に2人分の食事を供えるのに、いつも全部食べた状態で下げられるのが不思議だ」ともらしたのを、村役人が聞き咎めたのである。領主である大坂城代土井利位の陣屋に通報が入った。

3月27日の早朝、土井と家老の鷹見泉石らが率いる探索方に包囲された大塩は、短刀と火薬を用いて格之助とともに自決した。享年45。火はすぐに消し止められたが、残されたのは顔の判別もつかない2体の黒焦げの遺体だけだった。

逃亡した参加者もことごとく捕縛されるか自決した。牢獄が焼失していたため遺体は高原溜に送られ、塩漬けにして保存された。処分が決まったのは翌1838年(天保9年)8月。大塩以下18名の塩漬け死体と、生き残っていた門人1名の計19名が磔、11名が打首獄門、そのほか遠島23名を含め、何らかの処罰を受けた者は750人におよんだ。
押収の経緯もひどいものだった。書簡を運んでいた飛脚が、中に金品が入っていると思って箱根の山中で開封し、金がないと知るや道端に捨ててしまったのである。拾った者から韮山代官江川英龍のもとに届けられ、内容の重大さに気づいた江川が箱根関に通報した。腐敗を告発する文書が、腐敗によって握り潰されたことになる。
失意のまま大坂に戻った大塩父子は、以前から出入りのあった商人・美吉屋五郎兵衛の店(現在の大阪市西区靱油掛町付近)の裏庭にある隠居宅に匿われた。
露見のきっかけは、些細なことだった。美吉屋の女中が帰郷した折に「主人夫妻が神棚に2人分の食事を供えるのに、いつも全部食べた状態で下げられるのが不思議だ」ともらしたのを、村役人が聞き咎めたのである。領主である大坂城代土井利位の陣屋に通報が入った。
3月27日の早朝、土井と家老の鷹見泉石らが率いる探索方に包囲された大塩は、短刀と火薬を用いて格之助とともに自決した。享年45。火はすぐに消し止められたが、残されたのは顔の判別もつかない2体の黒焦げの遺体だけだった。
逃亡した参加者もことごとく捕縛されるか自決した。牢獄が焼失していたため遺体は高原溜に送られ、塩漬けにして保存された。処分が決まったのは翌1838年(天保9年)8月。大塩以下18名の塩漬け死体と、生き残っていた門人1名の計19名が磔、11名が打首獄門、そのほか遠島23名を含め、何らかの処罰を受けた者は750人におよんだ。
後世への影響
挙兵そのものは半日で潰えた。しかし、幕府の元役人が、大坂という重要な直轄地で公然と反乱を起こしたという事実は、幕府から庶民に至るまで、社会全体に衝撃を与えた。

大塩の檄文は、取り締まりをかいくぐって庶民の手で書き写され、全国へ広まった。寺子屋の習字の手本にされたほどである。

同じ1837年6月、越後国柏崎(現在の新潟県柏崎市)では、国学者の生田万が桑名藩の陣屋を襲撃した(生田万の乱)。摂津国能勢では山田屋大助が一揆を起こしている(能勢騒動)。以後、各地の騒動の首謀者たちは「大塩門弟」「大塩残党」を名乗った。

遺体が判別不能だったことから、「大塩はまだ生きている」という噂も全国に流れた。海外へ逃亡したという説、さらにはこの年に日本沿岸へ来航したモリソン号と結びつけて「大塩と黒船が江戸を襲う」という説まで飛び交った。噂を恐れた大坂町奉行が市中巡察を取りやめる事態にもなっている。1年後にようやく行われた磔も、塩漬けの遺体を十数体並べるという異様なもので、かえって生存説を煽る結果になった。

政治面での影響も大きい。大坂は京都に近いため、2月25日には京都所司代から光格上皇と仁孝天皇へ事件が報告され、以後も捜索状況がたびたび朝廷に伝えられた。朝廷は諸社に豊作祈願を命じ、幕府がその費用を出している。それまで大政委任を盾に朝廷へ強い姿勢をとってきた幕府が朝廷の命令を受け入れたことは、幕府の権威が下がり、朝廷の権威が上がる兆しと見ることができる。

相次ぐ一揆と反乱に危機感を強めた幕府は、1841年(天保12年)から老中・水野忠邦のもとで天保の改革に着手する。だが改革はわずか2年余りで失敗した。幕藩体制の動揺はおさまらず、30年後の明治維新へとつながっていく。

大塩の著書はいずれも乱の直後に禁書とされたが、その生涯は実録本や随筆の題材となって流布し、明治以降も森鷗外『大塩平八郎』をはじめ多くの小説や映画が作られた。謀反人ゆえに長く墓を建てられなかったが、1890年(明治23年)、大塩家の菩提寺である大阪市北区の成正寺に墓が建立され、現在も命日の3月29日に慰霊法要が営まれている。
大塩の檄文は、取り締まりをかいくぐって庶民の手で書き写され、全国へ広まった。寺子屋の習字の手本にされたほどである。
同じ1837年6月、越後国柏崎(現在の新潟県柏崎市)では、国学者の生田万が桑名藩の陣屋を襲撃した(生田万の乱)。摂津国能勢では山田屋大助が一揆を起こしている(能勢騒動)。以後、各地の騒動の首謀者たちは「大塩門弟」「大塩残党」を名乗った。
遺体が判別不能だったことから、「大塩はまだ生きている」という噂も全国に流れた。海外へ逃亡したという説、さらにはこの年に日本沿岸へ来航したモリソン号と結びつけて「大塩と黒船が江戸を襲う」という説まで飛び交った。噂を恐れた大坂町奉行が市中巡察を取りやめる事態にもなっている。1年後にようやく行われた磔も、塩漬けの遺体を十数体並べるという異様なもので、かえって生存説を煽る結果になった。
政治面での影響も大きい。大坂は京都に近いため、2月25日には京都所司代から光格上皇と仁孝天皇へ事件が報告され、以後も捜索状況がたびたび朝廷に伝えられた。朝廷は諸社に豊作祈願を命じ、幕府がその費用を出している。それまで大政委任を盾に朝廷へ強い姿勢をとってきた幕府が朝廷の命令を受け入れたことは、幕府の権威が下がり、朝廷の権威が上がる兆しと見ることができる。
相次ぐ一揆と反乱に危機感を強めた幕府は、1841年(天保12年)から老中・水野忠邦のもとで天保の改革に着手する。だが改革はわずか2年余りで失敗した。幕藩体制の動揺はおさまらず、30年後の明治維新へとつながっていく。
大塩の著書はいずれも乱の直後に禁書とされたが、その生涯は実録本や随筆の題材となって流布し、明治以降も森鷗外『大塩平八郎』をはじめ多くの小説や映画が作られた。謀反人ゆえに長く墓を建てられなかったが、1890年(明治23年)、大塩家の菩提寺である大阪市北区の成正寺に墓が建立され、現在も命日の3月29日に慰霊法要が営まれている。
参考サイト
- 大塩平八郎の乱:コトバンク
- 大塩平八郎:コトバンク
- 博物館だより No.79 秋季特別展「大塩平八郎展 四海困窮いたし候はば…」:吹田市立博物館
- なにわ大坂をつくった100人 第20話 大塩平八郎:関西・大阪21世紀協会
- 大塩平八郎の乱(日本大百科全書・国史大辞典):ジャパンナレッジ
- 大塩の乱――粉河の旧家に残されていた大塩平八郎の人相書:和歌山県立図書館
- 宮城公子「儒教の自己変革と民衆:大塩平八郎について」:京都大学『史林』
- 荻原大地「大塩平八郎物実録の展開とその受容」:日本近世文学会『近世文藝』
- 森鷗外『大塩平八郎』:青空文庫
- 西暦1833年 - 天保の大飢饉:ぱふぅ家のホームページ
参考書籍
|
|
大塩平八郎構造改革に玉砕した男 | ||
| 著者 | 長尾剛 | ||
| 出版社 | ベストセラ-ズ | ||
| サイズ | 単行本 | ||
| 発売日 | 2003年05月01日頃 | ||
| 価格 | 1,760円(税込) | ||
| ISBN | 9784584187470 | ||
| 江戸後期、自らの命と引き換えに、疲弊したこの国の体制に修復のメスを入れようとした男がいた。その名は誰もが記憶しているが、知られざる改革者の足跡、意地、信念。 | |||
|
|
檄(上) 大塩平八郎の道 | ||
| 著者 | 西崎泰正/八潮路つとむ | ||
| 出版社 | リイド社 | ||
| サイズ | コミック | ||
| 発売日 | 2005年03月28日頃 | ||
| 価格 | 576円(税込) | ||
| ISBN | 9784845821594 | ||
|
|
檄(下) 大塩平八郎の道 | ||
| 著者 | 西崎泰正/八潮路つとむ | ||
| 出版社 | リイド社 | ||
| サイズ | コミック | ||
| 発売日 | 2005年03月28日頃 | ||
| 価格 | 576円(税込) | ||
| ISBN | 9784845821600 | ||
この時代の世界
(この項おわり)


天保の大飢饉で飢える民衆を救おうとしない奉行所と豪商に対する、元幕府役人による反乱であった。