西暦1837年 - 大塩平八郎の乱

幕府役人による内乱

人は皆 (1837) 助ける大塩の乱

大塩平八郎
大塩平八郎(中斎)
天保8年(1837年)2月19日、大坂東町奉行所の元与力 (よりき) 大塩平八郎 (おおしおへいはちろう) は、自宅に火を放って武装蜂起 (ほうき) した。大塩平八郎の乱である。

天保の大飢饉で飢える民衆を救おうとしない奉行所と豪商に対する、元幕府役人による反乱であった。

目次

大塩平八郎という人物

洗心洞での講義(イメージ)
私塾・洗心洞で門人に講義する大塩(イメージ)
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大塩平八郎(1793-1837)は、大坂天満 (てんま) に生まれた。 (いみな) 後素 (こうそ) 、号は中斎 (ちゅうさい) 。大塩家は代々、大坂東町奉行所の与力を務める家柄で、平八郎は8代目にあたる。

14歳で与力見習いとして出仕し、25歳で与力となった。
奉行所時代の大塩は、汚職を憎み、不正を次々と暴いた。西町奉行所の与力・弓削新右衛門 (ゆげしんえもん) の汚職を内部告発し、隠れキリシタン (かくれキリシタン) を摘発し、破戒僧 (はかいそう) を処断した。大塩はこの3件を自らの「三大功績」と呼んでいる。

1824年(文政7年)、独学で陽明学 (ようめいがく) を修めた大塩は、自宅に私塾洗心洞 (せんしんどう) を開いた。陽明学は、知ることと行うことは切り離せないとする「知行合一 (ちこうごういつ) 」を説く。学んだ正しさは、行動に移してはじめて意味を持つ——この思想が、後の決起につながっていく。

1830年(文政13年)、自分を重用してくれた東町奉行・高井実徳 (たかいさねのり) が転勤すると、大塩は38歳で与力を辞し、養子の大塩格之助 (おおしおかくのすけ) に跡目を譲って隠居した。以後は洗心洞での子弟の指導に専念する。

その生活は徹底して禁欲的 (きんよくてき) だった。夕方に就寝し、午前2時に起きて天体観測、潔斎 (けっさい) と武芸のあと朝食をとり、午前5時から門弟に講義をして、それから出勤する。講義は厳格そのもので、門人たちは緊張のあまり大塩の目を見られなかったという。

一方で、きわめて短気でもあった。歴史家の頼山陽 (らいさんよう) は、大塩の学識を「小陽明」と称賛しつつ、「刀を (ぬぐ) い、時に (これ)  (おさ) せよ」——刀は磨いてしまっておけ、と直情的な性格を (いまし) めた。西町奉行・矢部定謙 (やべさだのり) の家で食事中、幕政の腐敗に怒るあまり、硬いカナガシラ (カナガシラ) の頭を噛み砕いてしまったという話も残る。探検家の近藤重蔵 (こんどうじゅうぞう) と会ったときは、互いに「畳の上では死ねない人」という印象を抱いたと伝えられる。

天保の飢饉と奉行所の対応

1833年(天保4年)から、全国的な天候不順による天保の大飢饉が始まった。飢饉がとくにひどかったのは、1833年秋から翌年夏にかけてと、1836年(天保7年)秋から1837年夏にかけての2つの時期である。

前半の危機は、大坂西町奉行・矢部定謙が大塩を顧問のように遇し、経済に明るい与力を配していたこともあって、大きな混乱なく切り抜けた。

問題は後半である。矢部は勘定奉行 (かんじょうぶぎょう) に栄転し、東町奉行には跡部良弼 (あとべよしすけ) が着任していた。跡部は、後に老中 (ろうじゅう) として天保の改革 (てんぽうのかいかく) を進める水野忠邦の実弟である。

跡部は、新将軍徳川家慶将軍宣下 (しょうぐんせんげ) の儀式にかかる費用と江戸の食料確保のため、大坂から江戸への廻米を強行した。京から5升1 () 程度の米を買いに来た者まで ()  () えるほど徹底したため、京都は餓死者であふれ、流民が大坂に流れ込んで市中の治安は悪化した。

大塩は跡部に対し、幕府の蔵米 (くらまい) を民に与えること、豪商の買い占めをやめさせることなど、米価安定のための策を繰り返し献策 (けんさく) した。だが、いっさい聞き入れられなかった。

そこで大塩は、豪商鴻池善右衛門 (こうのいけぜんえもん) (9代・幸実)に対し、「貧民に米を買い与えたい。自分と門人の禄米 (ろくまい) を担保に1万両を貸してほしい」と持ちかける。しかし幸実が跡部に相談したところ「断れ」と命じられ、この話も流れた。

ただし、奉行所がまったく無策だったわけではない、という見方もある。1833年から1837年にかけて、大坂町奉行所は堂島 (どうじま) の米取引不正禁止令、米相場抑制令、入津米 (にゅうしんまい) 増加令、他国売り禁止令、小売米価引き下げ令、官米の払い下げなど、打てる手はほぼ打っており、大坂市中の飯米 (はんまい) 確保はかなりの程度機能していたとする研究がある。跡部自身も、1836年11月の江戸廻米推進令に対しては、大坂の米が流出しすぎないよう手を打ち、江戸から米を買い付けに来た商人には協力を拒んでいる。

それでも米不足は解消しなかった。制度としての施策 (しさく) と、目の前で人が飢え死にしていく現実との落差が、大塩を追い詰めていった。

決起の準備と「檄文」

檄文の秘密印刷(イメージ)
板木を32枚に分けて刷られた檄文(イメージ)
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1836年(天保7年)秋、甲斐国 (かいのくに) 天保騒動三河国 (みかわのくに) の加茂一揆と大規模な騒動が続き、東北では10万人が死んだ。同年9月、大塩は「檄文 (げきぶん) 」を書き上げ、極秘に印刷させた。

計画が漏れないよう、板木は32枚に分割して彫らせたという。
檄文は、「四海困窮いたし候はば天禄長く絶えん」——世の中が困窮すれば天から与えられた地位も長くは続かない、という『論語 (ろんご) 』の一節を引き、役人と豪商の (おご) りを弾劾する。そのうえで、蜂起に加われば金持 (かねも) ちの蔵の金銀と米を分け与える、と呼びかけるものだった。

資金は自前で用意した。大塩は蔵書5万冊を全て売却し、得た金を近郷の窮民に分け与えている。あわせて、金1 (しゅ) と交換できる施行札 (せぎょうふだ) を大坂市中と近在の村に配り、天満で火事が起きたら駆けつけよと伝えた。火災が決起の合図だったのである。

武装の準備も進めた。家財を売り払い、家族を離縁 (りえん) したうえで、大砲などの火器と焙烙玉 (ほうろくだま) (爆薬)をそろえる。「打ちこわしが起きたときの鎮圧のため」と称して、与力・同心 (どうしん) の門人に砲術 (ほうじゅつ) を中心とする軍事訓練を施した。大塩自身、若い頃に中島流 (なかじまりゅう) 砲術と[https://www.nihonkobudokyoukai.org/martialarts/053/:titl=佐分利流] (さぶりりゅう) 槍術 (そうじゅつ) を学び、槍では関西一と評された腕前だった。

同時に大塩は、大坂町奉行所の不正と役人の汚職を訴える建議書 (けんぎしょ) を書き上げ、江戸の幕閣に送りつけている。そこには、禁じられていた無尽 (むじん) に諸大名が関与し、幕閣がその証拠を隠蔽 (いんぺい) したという告発が含まれていた。告発された中には、水野忠邦ら当時の現職老中4名が名を連ねていたという。

決起の日は、新任の西町奉行・堀利堅 (ほりとしかた) が跡部と連れ立って天満地区を巡検する2月19日と定めた。休憩中の両奉行を大砲で襲撃するという計画である。この計画は前年12月に主要門人へ告げられたが、門人たちは唖然 (あぜん) とし、数人は必死に思いとどまるよう説得した。大塩は耳を貸さなかった。賛同できずに距離を置き、乱に加わらなかった門人も多かった。

密告、そして大坂の大火

大塩焼け(イメージ)
大坂市中の5分の1が焼けた「大塩焼け」(イメージ)
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決起の直前、計画は内部から崩れた。2月17日の夜、町目付 (まちめつけ) 平山助次郎 (ひらやますけじろう) が東町奉行・跡部良弼に計画と参加者を密告する。跡部は、参加予定者に奉行所の役人が少なからず含まれていることに驚いた。

翌18日には、同心の吉見九郎右衛門 (よしみくろうえもん) も西町奉行に密告した。
19日の早朝、今度は門人のうち数名が檄文を持って東町奉行所に駆け込み、決起計画を通報した。奉行所は、泊まり番として詰めていた門人の与力2名を捕縛しようとする。1名は斬られ、1名は大塩邸へ逃げ込んだ。

計画が露見したと知った大塩は、予定を変更して即時決起する。1837年2月19日(新暦3月25日)の朝、自邸に火を放った。

天満橋近くの大塩邸を出た一党は、難波橋 (なにわばし) を渡って北船場 (せんば) へ進み、三井呉服店鴻池家 (こうのいけけ) といった豪商を襲った。近郷の農民や引き込まれた町民が加わり、勢力は300人ほどに膨れあがる。掲げていたのは「救民」の二文字を大書した旗だった。

だが、豪商の屋敷に大砲や火矢 (ひや) を放った結果、広がったのは火災だけだった。大塩勢は内平野町で奉行所の部隊と衝突してたちまち蹴散らされ、淡路町付近での衝突で壊滅する。決起はわずか半日で鎮圧された。大塩勢の戦死者は3名、巻き込まれて死亡した者15名。奉行所側には負傷者すら出ていない。

被害が甚大だったのは、火のほうである。「大塩焼け」と呼ばれたこの火災は翌20日に鎮火したが、『浮世の有様 (うきよのありさま) 』などの史料によれば、天満を中心に大坂市中の5分の1が焼失した。当時の大坂の人口約36万人のうち、5分の1にあたる7万人ほどが焼け出され、焼死者は少なくとも270人以上にのぼった。救おうとした民衆を、結果として焼き出してしまったことになる。

40日の潜伏と自決

潜伏先の包囲
包囲された靱油掛町の隠れ家
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大塩は養子の格之助とともに戦場を離れ、40日余りにわたって大坂近郊を転々 (てんてん) とした。淀川 (よどがわ) に船を浮かべて日暮れまで東町奉行所の様子をうかがったのち、河内国 (かわちのくに) を経て大和国 (やまとのくに) へ逃れている。

先に江戸へ送った建議書が幕府に届くことを期待していたのである。
その建議書は、江戸には届いたものの、大坂町奉行所の差し戻し命令によって宛先には渡らなかった。しかも差し戻しの途中、箱根関 (はこねのせき) で発見されて押収されてしまう。

押収の経緯もひどいものだった。書簡を運んでいた飛脚 (ひきゃく) が、中に金品が入っていると思って箱根の山中で開封し、金がないと知るや道端に捨ててしまったのである。拾った者から韮山代官 (にらやまだいかん) 江川英龍 (えがわひでたつ) のもとに届けられ、内容の重大さに気づいた江川が箱根関に通報した。腐敗を告発する文書が、腐敗によって握り (つぶ) されたことになる。

失意 (しつい) のまま大坂に戻った大塩父子は、以前から出入りのあった商人・美吉屋五郎兵衛 (みよしやごろべえ) の店(現在の大阪市西区 (うつぼ) 油掛町付近)の裏庭にある隠居宅に (かくま) われた。

露見のきっかけは、些細 (ささい) なことだった。美吉屋の女中 (じょちゅう) が帰郷した折に「主人夫妻が神棚に2人分の食事を供えるのに、いつも全部食べた状態で下げられるのが不思議だ」ともらしたのを、村役人が聞き (とが) めたのである。領主である大坂城代 (じょうだい) 土井利位 (どいとしつら) 陣屋 (じんや) に通報が入った。

3月27日の早朝、土井と家老の鷹見泉石 (たかみせんせき) らが率いる探索方に包囲された大塩は、短刀と火薬を用いて格之助とともに自決した。享年45。火はすぐに消し止められたが、残されたのは顔の判別もつかない2体の黒焦げの遺体だけだった。

逃亡した参加者もことごとく捕縛されるか自決した。牢獄が焼失していたため遺体は高原溜 (たかはらだめ) に送られ、塩漬けにして保存された。処分が決まったのは翌1838年(天保9年)8月。大塩以下18名の塩漬け死体と、生き残っていた門人1名の計19名が (はりつけ) 、11名が打首 (うちくび) 獄門 (ごくもん) 、そのほか遠島 (えんとう) 23名を含め、何らかの処罰を受けた者は750人におよんだ。

後世への影響

挙兵そのものは半日で潰えた。しかし、幕府の元役人が、大坂という重要な直轄地で公然と反乱を起こしたという事実は、幕府から庶民に至るまで、社会全体に衝撃を与えた。

大塩の檄文は、取り締まりをかいくぐって庶民の手で書き写され、全国へ広まった。寺子屋 (てらこや) の習字の手本にされたほどである。

同じ1837年6月、越後国 (えちごのくに) 柏崎(現在の新潟県柏崎市)では、国学 (こくがく) 者の生田万桑名藩 (くわなはん) の陣屋を襲撃した(生田万の乱 (いくたよろずのらん) )。摂津国 (せっつのくに) 能勢 (のせ) では山田屋大助 (やまだやだいすけ) が一揆を起こしている(能勢騒動)。以後、各地の騒動の首謀者たちは「大塩門弟」「大塩残党」を名乗った。

遺体が判別不能だったことから、「大塩はまだ生きている」という噂も全国に流れた。海外へ逃亡したという説、さらにはこの年に日本沿岸へ来航したモリソン号と結びつけて「大塩と黒船が江戸を襲う」という説まで飛び交った。噂を恐れた大坂町奉行が市中巡察を取りやめる事態にもなっている。1年後にようやく行われた磔も、塩漬けの遺体を十数体並べるという異様なもので、かえって生存説を (あお) る結果になった。

政治面での影響も大きい。大坂は京都に近いため、2月25日には京都所司代 (きょうとしょしだい) から光格上皇 (こうかくじょうこう) 仁孝天皇 (にんこうてんのう) へ事件が報告され、以後も捜索状況がたびたび朝廷に伝えられた。朝廷は諸社に豊作祈願を命じ、幕府がその費用を出している。それまで大政委任 (たいせいいにん)  (たて) に朝廷へ強い姿勢をとってきた幕府が朝廷の命令を受け入れたことは、幕府の権威が下がり、朝廷の権威が上がる兆しと見ることができる。

相次ぐ一揆と反乱に危機感を強めた幕府は、1841年(天保12年)から老中・水野忠邦のもとで天保の改革に着手する。だが改革はわずか2年余りで失敗した。幕藩体制の動揺はおさまらず、30年後の明治維新 (めいじいしん) へとつながっていく。

大塩の著書はいずれも乱の直後に禁書 (きんしょ) とされたが、その生涯は実録本 (じつろくぼん) や随筆の題材となって流布し、明治以降も森鷗外 (もりおうがい) 『大塩平八郎』をはじめ多くの小説や映画が作られた。謀反人ゆえに長く墓を建てられなかったが、1890年(明治23年)、大塩家の菩提寺である大阪市北区の成正寺 (じょうしょうじ) に墓が建立され、現在も命日の3月29日に慰霊法要が営まれている。

参考サイト

参考書籍

表紙 大塩平八郎構造改革に玉砕した男
著者 長尾剛
出版社 ベストセラ-ズ
サイズ 単行本
発売日 2003年05月01日頃
価格 1,760円(税込)
ISBN 9784584187470
江戸後期、自らの命と引き換えに、疲弊したこの国の体制に修復のメスを入れようとした男がいた。その名は誰もが記憶しているが、知られざる改革者の足跡、意地、信念。
 
表紙 檄(上) 大塩平八郎の道
著者 西崎泰正/八潮路つとむ
出版社 リイド社
サイズ コミック
発売日 2005年03月28日頃
価格 576円(税込)
ISBN 9784845821594
 
表紙 檄(下) 大塩平八郎の道
著者 西崎泰正/八潮路つとむ
出版社 リイド社
サイズ コミック
発売日 2005年03月28日頃
価格 576円(税込)
ISBN 9784845821600
 

この時代の世界

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(この項おわり)
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