四代目市川小團次の鼠小僧
鼠のように忍び込む手口
塀を乗り越え、昼のうちに屋敷へ紛れ込んだ
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門を入ったあとの動きも周到である。「人が来たら便所に籠もり、咳をすれば怪しまれない」「奥向は厳重そうに見えて女ばかりで咎められにくいので、夜は奥向を狙うのがよい」。奥向や長局は男子禁制で、屋敷の役人も遠慮して立ち入らない。見とがめられても逃げやすい場所だった。

静山は「鼠小僧は近眼だというが、どうやってあの軽業をこなしたものだろうか」とも書き残している。
なお、次郎吉は金座にも3度侵入を試みたが、見回りが頻繁で内部までは入れなかったという。
静山は「鼠小僧は近眼だというが、どうやってあの軽業をこなしたものだろうか」とも書き残している。
なお、次郎吉は金座にも3度侵入を試みたが、見回りが頻繁で内部までは入れなかったという。
99箇所・120回、3000両余
盗みの規模は記録に残っている。1823年ごろから始めた最初の時期は、28箇所32回の侵入で751両余と銭7貫余。1825年の追放処分の後も稼業を続け、武家屋敷70箇所・89回にわたり長局や奥向を荒らして金2334両2分、銀4匁3分、銭3貫372文を盗み出した。

北町奉行・榊原忠之の尋問では「総額1万2000両ばかり」と答えて周囲を驚かせたが、これは誇張とみられている。次郎吉が記憶している範囲では、合計99箇所の屋敷にのべ120回侵入し、3000両余を盗んだ、というのが記録上の数字である。

1回あたりの被害額は10両前後が多く、最大は大垣藩屋敷(藩主・戸田氏庸)の土蔵から盗んだ422両だった。忍び込んだが何も盗れなかった屋敷もある。一方、自分の妹が奉公していた加賀藩邸には、あえて侵入していない。
北町奉行・榊原忠之の尋問では「総額1万2000両ばかり」と答えて周囲を驚かせたが、これは誇張とみられている。次郎吉が記憶している範囲では、合計99箇所の屋敷にのべ120回侵入し、3000両余を盗んだ、というのが記録上の数字である。
1回あたりの被害額は10両前後が多く、最大は大垣藩屋敷(藩主・戸田氏庸)の土蔵から盗んだ422両だった。忍び込んだが何も盗れなかった屋敷もある。一方、自分の妹が奉公していた加賀藩邸には、あえて侵入していない。
面目を失った大名たちと狂歌
被害に遭った大名家の面目は丸潰れだった。松浦静山も平戸藩邸に2度入られた被害者の一人で、『甲子夜話』には屋敷内で語られた噂が数多く記されている。

松平周防守が大坂城代を務め、江戸の藩邸が婦女子ばかりになっていたとき、次郎吉は2度侵入した。長局の各部屋の障子に中を窺う穴を開け、ある部屋では鼈甲の笄や簪を引き出して並べたが、それらには手を付けず金銀だけを持ち去ったという。

さらに、姫路侯の隣屋敷で能が催された折、中入りに18、9歳ほどの男が舞台中央に突然現れ、追い払おうとすると忽然と消え、舞台には「鼠小僧御能拝見」と書かれた紙片が残されていた——という真偽不明の話まで流れた。

捕縛後、江戸では大名を揶揄する狂歌が広まり、『浮世の有様』に書き留められている。
松平周防守が大坂城代を務め、江戸の藩邸が婦女子ばかりになっていたとき、次郎吉は2度侵入した。長局の各部屋の障子に中を窺う穴を開け、ある部屋では鼈甲の笄や簪を引き出して並べたが、それらには手を付けず金銀だけを持ち去ったという。
さらに、姫路侯の隣屋敷で能が催された折、中入りに18、9歳ほどの男が舞台中央に突然現れ、追い払おうとすると忽然と消え、舞台には「鼠小僧御能拝見」と書かれた紙片が残されていた——という真偽不明の話まで流れた。
捕縛後、江戸では大名を揶揄する狂歌が広まり、『浮世の有様』に書き留められている。
市中引き回しと獄門
次郎吉には市中引き回しの上での獄門の判決が下されたが、本来なら放火や殺人といった凶悪犯に適用される刑であり、面子を潰された武家の報復という説もある。また、次郎吉は肉親と縁を切っており、連座制は適用されず、彼一人が罪を背負って死んでいった。

天保3年8月19日(1832年9月13日)、引き回しは牢屋敷のある伝馬町から日本橋、京橋のあたりへと進んだ。すでに有名人だった鼠小僧を一目見ようと野次馬が押し寄せたという。このときの次郎吉は、上は黒の麻帷子、下は更紗、帯は八端、顔には薄化粧をしていた。

処刑地は品川の鈴ヶ森刑場とする文献と、小塚原刑場とする説がある。静山は千住で処刑されたと聞いて家臣に獄門首を見に行かせており、その報告は「平たく丸顔で肉付きは良い方、色白で薄いあばたがあり、眉は薄く目は小さい。悪人面ではなく柔和で職人らしく見える」というものだった。享年は36歳、37歳、38歳の説がある。

長谷川時雨の『旧聞日本橋』にも、祖母が引き回しを見たとして「鼠小僧は小がらな、うすあばたのある、ちいさな男のよし」と伝えられている。
天保3年8月19日(1832年9月13日)、引き回しは牢屋敷のある伝馬町から日本橋、京橋のあたりへと進んだ。すでに有名人だった鼠小僧を一目見ようと野次馬が押し寄せたという。このときの次郎吉は、上は黒の麻帷子、下は更紗、帯は八端、顔には薄化粧をしていた。
処刑地は品川の鈴ヶ森刑場とする文献と、小塚原刑場とする説がある。静山は千住で処刑されたと聞いて家臣に獄門首を見に行かせており、その報告は「平たく丸顔で肉付きは良い方、色白で薄いあばたがあり、眉は薄く目は小さい。悪人面ではなく柔和で職人らしく見える」というものだった。享年は36歳、37歳、38歳の説がある。
長谷川時雨の『旧聞日本橋』にも、祖母が引き回しを見たとして「鼠小僧は小がらな、うすあばたのある、ちいさな男のよし」と伝えられている。
義賊伝説はどう生まれたか
こうして次郎吉は義賊「鼠小僧」として江戸庶民の間に語り継がれることになる。「汚職大名や悪徳商家から盗んだ金を、困っている貧しい者に分け与えた」という伝説である。捕縛後の家宅捜索で盗んだ金銭がほとんど発見されなかったことも、この話を補強した。

だが、奉行所の記録に施しの記述は一切ない。盗んだ金の使い道は酒食、女遊び、賭博だったと記されている。新聞記者出身の作家矢田挿雲は「衣食住の贅沢に費ひ其他は酒色遊興又は博奕の資本に使ひ際立って貧民に施した形跡は無い」と、義賊伝説を明確に否定している。

大名屋敷ばかりを狙った理由も、本人が「警備が手薄で出入りしやすい」と説明している通り、反権力ではなく実利だった。三田村鳶魚は「便宜上武家屋敷を選定したのであって、決して被害者の境遇に対する思慮を有する訳ではなかった」と、人物像そのものに疑問を呈している。

それでも「義賊」らしい話は残る。『甲子夜話』には、町屋から70両を盗んだ後、その家が店を閉めて静まりかえっているのを見て情にかられ70両を返し、それ以来大名屋敷だけを狙うようになった、という噂が記されている。囲い者が数人いたが、町同心が捕縛に向かうと全員が離縁状を持っており、事前に渡しておいた「盗人なりの仁義」だろうと静山は書いている。賭場では、勝ち逃げも白ける負け方もしないことで評判が良かったという。

民衆が次郎吉を義賊として思い描いたこと自体は、ひとつの歴史的事実である。歴史学者の南塚信吾は、鼠小僧が主に大名屋敷から盗んだ点について「その理由がなんであれ、単純ではあるが意外に重要なことであろう。民衆の大名に対する潜在的不満が癒され、民衆の正義感につながる側面があったはずだからである」と評価している。
だが、奉行所の記録に施しの記述は一切ない。盗んだ金の使い道は酒食、女遊び、賭博だったと記されている。新聞記者出身の作家矢田挿雲は「衣食住の贅沢に費ひ其他は酒色遊興又は博奕の資本に使ひ際立って貧民に施した形跡は無い」と、義賊伝説を明確に否定している。
大名屋敷ばかりを狙った理由も、本人が「警備が手薄で出入りしやすい」と説明している通り、反権力ではなく実利だった。三田村鳶魚は「便宜上武家屋敷を選定したのであって、決して被害者の境遇に対する思慮を有する訳ではなかった」と、人物像そのものに疑問を呈している。
それでも「義賊」らしい話は残る。『甲子夜話』には、町屋から70両を盗んだ後、その家が店を閉めて静まりかえっているのを見て情にかられ70両を返し、それ以来大名屋敷だけを狙うようになった、という噂が記されている。囲い者が数人いたが、町同心が捕縛に向かうと全員が離縁状を持っており、事前に渡しておいた「盗人なりの仁義」だろうと静山は書いている。賭場では、勝ち逃げも白ける負け方もしないことで評判が良かったという。
民衆が次郎吉を義賊として思い描いたこと自体は、ひとつの歴史的事実である。歴史学者の南塚信吾は、鼠小僧が主に大名屋敷から盗んだ点について「その理由がなんであれ、単純ではあるが意外に重要なことであろう。民衆の大名に対する潜在的不満が癒され、民衆の正義感につながる側面があったはずだからである」と評価している。
回向院の墓と「お前立ち」
回向院にある鼠小僧次郎吉の墓
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墓は回向院以外にもある。愛知県蒲郡市の委空寺には、母親の手によるとされる墓を移設したものがあり、同市神明町が次郎吉の生地だという伝承も残る。ほかに南千住の小塚原回向院、愛媛県松山市、岐阜県各務原市などにも、鼠小僧に恩義を受けた人々が建てたと伝えられる墓がある。

次郎吉は源次郎(弟の名)、魚屋治三郎、次兵衛といった偽名を使い、佐内町、檜物町、向町、赤坂田町、深川中島町、永代寺門前仲町、深川山本町、本所新右衛門町、神田新銀町と居所を転々としていた。女房も頻繁に替え、かつ、いち、さん、みちという4人の酌婦と連れ添ったり離縁したりを繰り返している。
次郎吉は源次郎(弟の名)、魚屋治三郎、次兵衛といった偽名を使い、佐内町、檜物町、向町、赤坂田町、深川中島町、永代寺門前仲町、深川山本町、本所新右衛門町、神田新銀町と居所を転々としていた。女房も頻繁に替え、かつ、いち、さん、みちという4人の酌婦と連れ添ったり離縁したりを繰り返している。
参考サイト
- 鼠小僧次郎吉について、知りたい。(小説ではなく、出身地などの歴史資料):国立国会図書館 レファレンス協同データベース
- 名所案内:回向院
- 墨田区登録文化財:墨田区
- 広報がまごおり 平成23年1月号(32ページ):蒲郡市
- 長谷川時雨『旧聞日本橋』:国立国会図書館デジタルコレクション
- 日本随筆大成 第三期 第7巻(『甲子夜話』):国立国会図書館デジタルコレクション
- 三田村鳶魚「鼠小僧次郎吉」『泥坊づくし』:国立国会図書館デジタルコレクション
- 鼠小僧は義賊ではなかった! はたして、その実像とは?:歴史街道
この時代の世界
(この項おわり)

武家屋敷を中心に盗みを繰り返し、文政8年(1825年)2月3日、土浦藩上屋敷(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)に忍び込んだところを捕縛されるが、南町奉行・筒井政憲の尋問に対し余罪を隠しとおし、入墨の上での中追放という処分で済んでいる。
中追放は江戸・京・大坂と東海道筋への居住を禁じる刑だが、通行そのものは禁じられていなかったため、次郎吉は江戸に住み続けた。外出のときだけ草鞋を履いて旅の途中を装う、という抜け道である。
天保3年5月8日(1832年6月6日)、日本橋浜町の小幡藩屋敷(藩主・松平宮内少輔忠恵)で、ついに同藩の侍に取り押さえられた。