アッバース朝第5代カリフ、ハールーン・アッラシード
首都バグダッドは、東西の陸路と、ティグリス川からペルシア湾へ続く水路が交わる交易都市として発展した。中国の紙、インドの香辛料、中央アジアの織物などが運ばれ、商人、職人、学者が集まった。人口を150万人とする説もあるが正確な数は分からない。それでも当時の世界最大級の都市であり、宮廷では詩、音楽、医学、天文学などが奨励された。後世にはこの繁栄が「イスラム黄金時代」の象徴とみなされた。

対外的には、東ローマ帝国との国境で戦いを重ねた。806年(延暦25年)には大軍を率いて小アジアへ侵攻し、皇帝ニケフォロス1世に貢納を認めさせた。ただし国境地帯の攻防は続き、恒久的な征服には至らなかった。一方、西方のフランク王カール大帝とは使節と贈り物を交換した。両者の外交には、東ローマ帝国や後ウマイヤ朝をけん制する狙いがあったと考えられる。

803年(延暦22年)、ハールーン・アッラシードは長く政権を支えたバルマク家を突然失脚させ、以後は自ら主導して統治した。理由は一つに定まらないが、一族への権力と富の集中を警戒したためとみられる。その後、ホラーサーンなど東部では重税や総督の圧政に対する反乱が広がった。彼は鎮圧のため遠征したが、809年(大同4年)、途上のトゥースで没した。

後継者には、長男アミーンを第1位、別の母から生まれたマアムーンを第2位とし、マアムーンにはホラーサーン統治を任せた。この取り決めは帝国をまとめる工夫であったが、死後に兄弟が対立し、811年(弘仁2年)から内戦となった。治世は繁栄の頂点であると同時に、地方勢力の成長と中央政府の分裂という、次の時代の問題が表れ始めた時期でもあった。

『千夜一夜物語』では、ハールーン・アッラシードが身分を隠して夜のバグダッドを歩き、人々の暮らしを見聞する名君として描かれる。しかし、これは後世に形成された文学上の姿であり、そのまま史実とはいえない。物語が広く読まれたことで、実際の政治や軍事以上に、豪華な宮廷と繁栄するバグダッドのイメージが世界へ伝わったのである。
対外的には、東ローマ帝国との国境で戦いを重ねた。806年(延暦25年)には大軍を率いて小アジアへ侵攻し、皇帝ニケフォロス1世に貢納を認めさせた。ただし国境地帯の攻防は続き、恒久的な征服には至らなかった。一方、西方のフランク王カール大帝とは使節と贈り物を交換した。両者の外交には、東ローマ帝国や後ウマイヤ朝をけん制する狙いがあったと考えられる。
803年(延暦22年)、ハールーン・アッラシードは長く政権を支えたバルマク家を突然失脚させ、以後は自ら主導して統治した。理由は一つに定まらないが、一族への権力と富の集中を警戒したためとみられる。その後、ホラーサーンなど東部では重税や総督の圧政に対する反乱が広がった。彼は鎮圧のため遠征したが、809年(大同4年)、途上のトゥースで没した。
後継者には、長男アミーンを第1位、別の母から生まれたマアムーンを第2位とし、マアムーンにはホラーサーン統治を任せた。この取り決めは帝国をまとめる工夫であったが、死後に兄弟が対立し、811年(弘仁2年)から内戦となった。治世は繁栄の頂点であると同時に、地方勢力の成長と中央政府の分裂という、次の時代の問題が表れ始めた時期でもあった。
『千夜一夜物語』では、ハールーン・アッラシードが身分を隠して夜のバグダッドを歩き、人々の暮らしを見聞する名君として描かれる。しかし、これは後世に形成された文学上の姿であり、そのまま史実とはいえない。物語が広く読まれたことで、実際の政治や軍事以上に、豪華な宮廷と繁栄するバグダッドのイメージが世界へ伝わったのである。
バグダッド付近の地図
参考書籍
参考サイト
- HĀRUN AL-RAŠID:Encyclopaedia Iranica
- MAʾMUN:Encyclopaedia Iranica
- The Art of the Abbasid Period (750–1258):The Metropolitan Museum of Art
この時代の世界
(この項おわり)


即位直後、母ハイズラーンとヤフヤー・イブン=ハーリド、その息子たちからなるバルマク家が政務を支えた。バルマク家は宰相や地方総督として、税の徴収、軍の運営、学者や詩人の保護を担い、広大な帝国を安定させた。中央アジアに起源をもつペルシア系官僚の知識と制度が、アラブ人王朝の統治に深く取り入れられたのである。