サーマッラー大モスクのミナレット
イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバースの子孫アブー=アルアッバースが750年にクーデターを起こし、ウマイヤ朝の最後のカリフ・マルワーン2世をザーブ河畔の戦いで破り、アッバース朝を創始した。
マワーリー(非アラブの改宗者)の不満を背負い、ペルシア人の力を借りてウマイヤ朝を倒し、税の平等を達成してバグダードで国際都市をつくる。これがアッバース朝の歩みである。
目次
成立の背景 ― ウマイヤ朝への不満の爆発
改宗しても人頭税を課されたマワーリー(イメージ)
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661年に成立したウマイヤ朝は、シリアのダマスカスを都とし、わずか数十年でイベリア半島から中央アジアまでを支配下に置いた。しかしその統治は、征服者であるアラブ人を頂点に置くものだった。この体制をアラブ帝国と呼ぶ。
不満の中心にあったのは税制である。イスラム教では、征服地の非ムスリムはジズヤ(人頭税)とハラージュ(地租)を納めることで信仰を認められた。本来、イスラム教に改宗すればジズヤは免除されるはずである。ところがウマイヤ朝は財政収入が減るのを嫌い、改宗した非アラブ人=マワーリーからもジズヤを取り立て続けた。

一方、アラブ人ムスリムはジズヤもハラージュも免除され、征服地からの収入で暮らす特権階級だった。「同じイスラム教徒なのに、なぜ税が違うのか」――クルアーンが説く信徒の平等と、現実の差別との矛盾が、マワーリーの不満を膨らませていった。

不満はマワーリーだけではない。ムハンマドの娘婿アリーの子孫こそ正統な指導者だと考えるシーア派は、680年のカルバラーの戦いでフサインを殺されて以来、ウマイヤ家を簒奪者とみなしていた。信仰よりも部族的利害を優先する統治への反発は、敬虔なアラブ人の間にも広がっていた。

さらに、732年のトゥール・ポアティエの戦いの頃を境に征服戦争が行き詰まり、新たな戦利品が入らなくなる。財政は苦しくなり、アラブ諸部族の内部抗争も激しくなった。第10代カリフヒシャームの死後、王朝は急速に統制を失っていく。
一方、アラブ人ムスリムはジズヤもハラージュも免除され、征服地からの収入で暮らす特権階級だった。「同じイスラム教徒なのに、なぜ税が違うのか」――クルアーンが説く信徒の平等と、現実の差別との矛盾が、マワーリーの不満を膨らませていった。
不満はマワーリーだけではない。ムハンマドの娘婿アリーの子孫こそ正統な指導者だと考えるシーア派は、680年のカルバラーの戦いでフサインを殺されて以来、ウマイヤ家を簒奪者とみなしていた。信仰よりも部族的利害を優先する統治への反発は、敬虔なアラブ人の間にも広がっていた。
さらに、732年のトゥール・ポアティエの戦いの頃を境に征服戦争が行き詰まり、新たな戦利品が入らなくなる。財政は苦しくなり、アラブ諸部族の内部抗争も激しくなった。第10代カリフヒシャームの死後、王朝は急速に統制を失っていく。
アッバース革命 ― どうやって倒したか
ホラーサーンで蜂起したアブー・ムスリムの軍(イメージ)
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ウマイヤ朝を倒したのは、正面からの合戦ではなく、10年以上かけた地下運動だった。ムハンマドの叔父アッバースの家系であるアッバース家は、ダーイー(宣教員)と呼ばれる工作員を各地に送り込み、シーア派やマワーリーなど反ウマイヤ朝の勢力を静かに結集していった。この一連の動きをアッバース革命という。
運動の拠点となったのが、イラン東部から中央アジアにかけてのホラーサーン地方である。ここはアラブ人入植者とペルシア系住民が混在し、ダマスカスの中央政府への不満が強い土地だった。747年、ダーイーとして送り込まれたアブー・ムスリムが、この地で反乱の旗を揚げる。

掲げられたのは黒旗だった。白を旗色とするウマイヤ朝への対抗であり、同時に「預言者の一族による正義の回復」を示す象徴でもあった。アブー・ムスリムはアラブ人・ペルシア人の区別なく兵を集め、旧ウマイヤ朝軍を各地で撃破しながら西へ進軍する。
掲げられたのは黒旗だった。白を旗色とするウマイヤ朝への対抗であり、同時に「預言者の一族による正義の回復」を示す象徴でもあった。アブー・ムスリムはアラブ人・ペルシア人の区別なく兵を集め、旧ウマイヤ朝軍を各地で撃破しながら西へ進軍する。
750年、ザーブ河畔の戦い(イメージ)
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749年9月、革命軍はイラクのクーファに入城し、アッバース家のアブー=アルアッバース(サッファーフ)をカリフに擁立した。翌750年1月、ウマイヤ朝最後のカリフマルワーン2世の軍と、ティグリス川の支流である大ザーブ川のほとりで激突する。これがザーブ河畔の戦いである。
戦いは革命軍の勝利に終わった。マルワーン2世はエジプトへ逃れたが、同年に殺害され、ウマイヤ家の一族もほぼ根絶やしにされた。この虐殺を逃れたアブド・アッラフマーン1世だけがイベリア半島へ渡り、756年にコルドバで後ウマイヤ朝を建てることになる。

なお、革命の最大の功労者であるアブー・ムスリムは、その人望と兵力を恐れた第2代カリフマンスールによって、755年に謀殺された。彼の死後、イランでは長くその名を掲げた反乱が続いている。
なお、革命の最大の功労者であるアブー・ムスリムは、その人望と兵力を恐れた第2代カリフマンスールによって、755年に謀殺された。彼の死後、イランでは長くその名を掲げた反乱が続いている。
歴史的意義 ― ウマイヤ朝との比較
アッバース朝の成立は、単なる王朝の交代ではない。イスラム世界の性格そのものを変える転換点だった。ウマイヤ朝との違いを整理すると、次のようになる。
| 項目 | ウマイヤ朝(成立前) | アッバース朝(成立後) |
|---|---|---|
| 国家の性質 | アラブ帝国(アラブ至上主義) | イスラーム帝国(民族を超えた世界帝国) |
| 税制の平等 | マワーリーにもジズヤ(人頭税)を徴収 | 改宗者にはジズヤを免除(ハラージュのみ) |
| 官僚・軍人 | アラブ人が独占 | ペルシア人やトルコ人など能力本位で登用 |
| 首都 | ダマスカス(地中海世界に近い) | バグダード(イラン・インド洋世界に近い) |
最大の改革は税制である。アッバース朝は、改宗者からジズヤを取ることをやめ、土地を持つ者はアラブ人であってもハラージュを納めることとした。信仰による区別と、土地による課税とが切り離されたわけである。「すべてのイスラム教徒は平等」という原則が、はじめて制度として実現した。

統治の担い手も変わった。アラブ人が独占していた官僚機構に、ペルシア人の実務官僚が大量に登用される。宰相(ワジール)の職はササン朝以来の行政の伝統を引き継ぐもので、バルマク家をはじめとするイラン系の名門が政治の中枢を占めた。軍でも、のちにはトルコ系のマムルーク(軍人奴隷)が重用されていく。

ウマイヤ朝に続き、アッバース朝でもカリフは世襲制で、アッバース家が代々世襲した。官僚制度や法律を整備し、税制をあらため、アラブと非アラブの平等化を図り、多民族共同体国家としてアラブ帝国をイスラーム帝国に変身させたのである。

ただし、この「平等」にも限界はあった。アッバース朝は、建国に際してはシーア派の支援を受けたが、権力を握るとスンナ派の立場に立って、シーア派を厳しく弾圧した。革命を担った者たちが、必ずしも果実を得たわけではない。
統治の担い手も変わった。アラブ人が独占していた官僚機構に、ペルシア人の実務官僚が大量に登用される。宰相(ワジール)の職はササン朝以来の行政の伝統を引き継ぐもので、バルマク家をはじめとするイラン系の名門が政治の中枢を占めた。軍でも、のちにはトルコ系のマムルーク(軍人奴隷)が重用されていく。
ウマイヤ朝に続き、アッバース朝でもカリフは世襲制で、アッバース家が代々世襲した。官僚制度や法律を整備し、税制をあらため、アラブと非アラブの平等化を図り、多民族共同体国家としてアラブ帝国をイスラーム帝国に変身させたのである。
ただし、この「平等」にも限界はあった。アッバース朝は、建国に際してはシーア派の支援を受けたが、権力を握るとスンナ派の立場に立って、シーア派を厳しく弾圧した。革命を担った者たちが、必ずしも果実を得たわけではない。
黄金期の到来 ― バグダード建設
三重の城壁に囲まれた円形都市バグダード(イメージ)
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第2代カリフマンスールは、762年、ティグリス川西岸に新首都の建設を始めた。正式名はマディーナ・アッサラーム(平安の都)。10万人ともいわれる労働者を動員し、766年に完成した。
バグダードは、直径約2.3kmの円形都市という珍しい設計だった。三重の城壁が同心円を描き、中心にカリフの宮殿と金曜モスク、その周囲に官庁と兵営を置く。四方に開かれた門は、それぞれクーファ、バスラ、シリア、ホラーサーンへ向かう街道につながっていた。
バグダードは、直径約2.3kmの円形都市という珍しい設計だった。三重の城壁が同心円を描き、中心にカリフの宮殿と金曜モスク、その周囲に官庁と兵営を置く。四方に開かれた門は、それぞれクーファ、バスラ、シリア、ホラーサーンへ向かう街道につながっていた。
この立地には意味がある。ダマスカスが地中海世界を向いていたのに対し、バグダードはティグリス・ユーフラテス両河の水運と、ペルシア湾を経てインド洋へ出る海路を押さえる位置にある。首都バグダッドを中心に交通・通信網を整備し、最盛期にはモロッコから中央アジアまでの西アジアに巨大なイスラム帝国を築いていく。9世紀には人口100万人に達したとされ、当時の世界最大級の国際商業都市となった。

中央アジアでは唐と領土を接することになり、はやくも751年にタラス河畔の戦いが起こり、唐を撃退した。アッバース朝は唐と覇権を争いながらも、その文化を積極的に吸収し、唐から伝わった製紙法を西方のヨーロッパへ伝えた。紙の普及は、書物の大量生産を可能にした。
中央アジアでは唐と領土を接することになり、はやくも751年にタラス河畔の戦いが起こり、唐を撃退した。アッバース朝は唐と覇権を争いながらも、その文化を積極的に吸収し、唐から伝わった製紙法を西方のヨーロッパへ伝えた。紙の普及は、書物の大量生産を可能にした。
「知恵の館」でギリシア語文献を翻訳する学者たち(イメージ)
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ここで蓄えられた古代ギリシアの知識は、のちの十字軍遠征やイベリア半島のトレドの翻訳活動を通じてヨーロッパへ還元され、ルネサンスへとつながる。数学者フワーリズミーの名は、のちに「アルゴリズム」の語源となった。

786年、ハールーン・アッラシードが即位すると、アッバース朝は最盛期を迎える。『千夜一夜物語』に描かれるバグダードの繁栄は、この時代の記憶にもとづくものである。
786年、ハールーン・アッラシードが即位すると、アッバース朝は最盛期を迎える。『千夜一夜物語』に描かれるバグダードの繁栄は、この時代の記憶にもとづくものである。
その後のアッバース朝
1258年、モンゴル軍に包囲されるバグダード(イメージ)
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参考サイト
- アッバース朝:世界史の窓
- アブー=アルアッバース:世界史の窓
- バグダード:世界史の窓
- ハラージュ:世界史の窓
- ジズヤ/人頭税:世界史の窓
- 知恵の館:世界史の窓
- バグダード:コトバンク
- 西暦661年 - ウマイヤ朝が成立:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦732年 - トゥール・ポアティエの戦い:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦751年 - タラス河畔の戦い:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦786年 - ハールーン・アッラシードが即位:ぱふぅ家のホームページ
この時代の世界
(この項おわり)
