春日大社の中門と御廊
768年(神護景雲2年)、藤原氏は御蓋山の麓に四棟の社殿を造営し、鹿島・香取・枚岡から四柱の神々を迎えた。これが春日大社の創建と伝わる。都が平城京から移った後も、春日大社は藤原氏の繁栄とともに信仰を集め、全国に約3,000社ある春日神社の総本社となった。
白鹿に乗ってきた神様
春日大社の伝承では、最初に迎えられた武甕槌命は、常陸国の鹿島から白鹿の背に乗り、御蓋山へ来たという。この「鹿の神使伝説」から、鹿は春日の神の使いとして大切にされた。奈良公園の鹿が人のそばで暮らし、現在も天然記念物として保護されている背景には、この長い信仰の歴史がある。
四柱の神々の合祀
春日大社の回廊
春日大社の本殿には、第一殿の武甕槌命、第二殿の経津主命、第三殿の天児屋根命、第四殿の比売神がまつられる。武甕槌命と経津主命は国土を守る神、天児屋根命は中臣氏・藤原氏の祖神、比売神はその后神とされ、四柱を合わせて「春日神」または「春日四所明神」と呼ぶ。
藤原氏の氏神と氏寺
神仏習合と春日権現
平安時代になると、日本の神は仏が人々を救うために現れた姿だとする本地垂迹の考えが広まった。春日の四神にもそれぞれ本地仏が当てられ、まとめて「春日権現」や「春日大明神」と呼ばれた。興福寺は春日の神を法相宗を守る神と考え、神前で仏教の経典を読むなど、神道と仏教が重なり合う信仰を育てた。春日曼荼羅や『春日権現験記』は、この神仏習合の姿を今に伝えている。
神木を使った強訴
春日若宮おん祭
1132年から続いた大雨や洪水で飢饉と疫病が広がると、藤原忠通は春日大社の若宮に救いを求めた。1135年に若宮の社殿を造り、翌1136年に祭礼を行ったのが春日若宮おん祭の始まりである。毎年12月、若宮の神を御旅所へ迎え、田楽・猿楽・舞楽などを奉納する。長い歴史をもつ神事芸能は、国の重要無形民俗文化財に指定されている。
明治の神仏分離と廃仏毀釈
1868年、明治政府は神道と仏教を分ける神仏分離令を出した。これをきっかけに仏教を排斥する廃仏毀釈が各地で起こり、春日大社と興福寺も制度上切り離された。春日社での日常的な読経は途絶え、仏教に関係する名称や品々が境内から除かれた。興福寺では僧が春日社の神職へ転じ、寺領も失われて一時は廃寺同然となったが、1881年(明治14年)に再興が認められた。現在は別の宗教法人である一方、両者は歴史的な結びつきを伝える行事を続けている。
参考サイト
- 御本殿案内:春日大社
- 1月の行事:春日大社
- おん祭について:春日若宮おん祭
- 興福寺の歴史―略史3:法相宗大本山 興福寺
- 興福寺の概要:法相宗大本山 興福寺
- 主な収蔵品:春日大社
- 神仏分離令が出される:国立公文書館
この時代の世界
(この項おわり)
