西暦732年 - トゥール・ポアティエの戦い

フランク王国がウマイア朝を退ける
トゥール・ポアティエの戦い
トゥール・ポアティエの戦い
フランク王国の宮宰カール・マルテル(Karl Martell)は、イベリア半島からピレネー山脈を越えてヨーロッパへの進出を目論むイスラムのウマイア朝と、西フランスのポアティエ(Poitiers)とトゥール(Tours)の間で衝突した。
この戦いでイスラーム軍は総司令官を失って撤退し、ピレネー山脈より北へ支配を広げることはなくなった。勝者カール・マルテルの家系は、のちにカロリング朝を開くことになる。

目次

歴史的背景 ― ピレネーに迫ったイスラーム勢力

ピレネー山脈を越えるウマイヤ朝の軍
ピレネー山脈を越えるウマイヤ朝の軍(イメージ)
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ムハンマドの没後、イスラーム勢力は1世紀のうちに西アジアから北アフリカへ拡大した。ウマイア朝は711年にジブラルタル海峡を渡って西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島の大半を支配下に置く。この地はアラビア語でアル・アンダルス(al-Andalus)と呼ばれた。
一方の西ヨーロッパでは、フランク王国メロヴィング朝の王権が弱まり、実権は宮宰(マヨル・ドムス)が握っていた。714年に宮宰となったカール・マルテルは、国内の対抗勢力を抑えて事実上の支配者となる。

720年代、アル・アンダルスの総督府はピレネー山脈を越えて南フランスへ進出し、721年にはナルボンヌを、725年にはニームを占領した。そして732年、総督アブド・アッラフマーン・アル・ガーフィキー(Abd al-Rahman al-Ghafiqi)が大軍を率いてガリアに侵入し、アキタニア公ウード(Eudes)の軍を破ってボルドーを略奪、さらに北のトゥールをめざした。トゥールにはサン・マルタン聖堂があり、豊かな財宝が納められていた。

ウードは長年対立していたカール・マルテルに救援を求める。カール・マルテルはこれに応じ、フランク軍を南下させた。

戦いの経過と勝敗

危機的状況に陥った西欧世界であるが、カール・マルテルが王国の土地の3分の1を没収して騎士たちに分け与えることで強力な直属軍を組織。辛うじてイスラム軍を撃退する。

両軍は732年10月、ポワティエの北東25kmほどの地点で対峙した。正確な戦場は特定されていない。
フランク軍の密集隊形とイスラーム騎兵
フランク軍の密集隊形とイスラーム騎兵(イメージ)
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フランク軍は徒歩の重装兵を密集させ、丘の斜面に隊列を組んで動かなかった。機動力にすぐれたイスラーム騎兵は繰り返し突撃したが、この隊伍 (たいご) を崩せない。数日のにらみ合いののち、戦闘は1日で決着したと伝えられる。
戦闘の最中、フランク軍の一部が敵陣の後方に回り込み、略奪品を積んだ輜重を襲った。財宝を守ろうとした兵が持ち場を離れたため、イスラーム軍の隊列は乱れる。総司令官アブド・アッラフマーンはこれを立て直そうとして戦死した。

指揮官を失ったイスラーム軍は、夜のうちに陣を捨てて南へ撤退した。カール・マルテルは追撃せず、伏兵を警戒して陣を保ったという。この勝利によって、カール・マルテルは「マルテル(Martel=鉄槌)」の名で呼ばれるようになったと伝えられる。

戦いがもたらした結果

イスラーム軍はガリアから撤退したが、南フランスのナルボンヌ周辺にはなお勢力が残った。カール・マルテルは737年までにアヴィニョン (Avignon) やニームを奪回し、759年には息子ピピン(小ピピン)がナルボンヌを回復して、イスラーム勢力をピレネー山脈の南へ押し戻した。

この後も、ナスル朝が滅ぶ15世紀末まで、イスラム勢力がイベリア半島を支配し続けたが、イスラーム王朝がピレネー山脈を越えて支配の手を伸ばすことはなくなった。

アル・アンダルス側の記録では、この戦いは「殉教者の道の戦い」と呼ばれる程度の局地的な敗戦にすぎない。ウマイヤ朝は東方の統治に手一杯で、750年にはアッバース朝に取って代わられる(西暦750年 - アッバース朝の成立)。もともと西ヨーロッパを征服する計画があったわけではなかった、という見方が現在では有力である。

歴史的意義① キリスト教世界の防波堤

ヨーロッパを守った戦いとして描かれるカール・マルテル
カール・マルテル(イメージ)
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この戦いは長く「キリスト教世界がイスラームの征服から救われた決戦」として語られてきた。18世紀の歴史家エドワード・ギボンは、もしフランク軍が敗れていればイスラーム勢力はライン川を越え、オックスフォードでコーラン (クルアーン) が講じられていただろうと書いた。
ただし近年の研究は、この「決戦」像を疑う。イスラーム軍の目的はトゥールの聖堂の財宝を奪う遠征であり、恒久的な征服ではなかったとみられる。同時代のフランク側の年代記も、この戦いを特別な世界史的事件として扱っていない。「ヨーロッパを救った戦い」という位置づけは、後の時代、とくに近代のヨーロッパで作られた解釈である。

とはいえ、結果として西ヨーロッパのキリスト教社会が独自の発展を続ける条件が保たれたことは事実である。この戦いは、地中海を挟んでイスラーム世界とキリスト教世界が向き合う中世ヨーロッパの構図を、はっきりと示した出来事だった。

歴史的意義② カロリング朝の台頭

ローマ教皇から聖別されるピピン
ローマ教皇の承認を得て即位するピピン(イメージ)
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勝利によってカール・マルテルの権威は決定的になった。彼は騎兵を養うために領地を与える仕組み(恩貸地制)を整え、これがのちの封建制の土台となる。同時に、修道院や教会の土地を家臣に配分したため、教会との間に緊張も生んだ。
741年にカール・マルテルが没すると、子のピピンが宮宰を継ぐ。ピピンは751年、メロヴィング朝最後の王キルデリク3世を退位させ、ローマ教皇の承認を得て自ら国王となった。カロリング朝の成立である。ピピンは756年にラヴェンナ地方を教皇に寄進し、フランク王国とローマ教皇の結びつきを強めた。

その子カール大帝(シャルルマーニュ)は、西ヨーロッパの大部分を統一し、800年にローマ教皇レオ3世から西ローマ皇帝の冠を授けられる(西暦800年 - カールの戴冠)。ゲルマン、キリスト教、ローマの3要素が結びついた「西欧世界」の誕生である。732年の勝利は、その起点に位置づけられる。

イベリア半島に花開いたイスラーム文化

コルドバのメスキータ
後ウマイヤ朝の都コルドバの大モスク(イメージ)
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北上を阻まれたイスラーム勢力は、イベリア半島に定着する道を選んだ。756年、アッバース朝の追及を逃れたアブド・アッラフマーン1世がコルドバに後ウマイヤ朝を建てる。10世紀のアブド・アッラフマーン3世の時代、コルドバは人口数十万を数え、当時の西ヨーロッパで最大級の都市になった。
アル・アンダルスは、学問と技術の集積地になった。ギリシア語のアリストテレスガレノスの著作はアラビア語に訳されて研究が進み、それがトレドなどでラテン語に再翻訳されて西ヨーロッパへ伝わった。12世紀の哲学者イブン・ルシュド(アヴェロエス)のアリストテレス注釈は、中世ヨーロッパのスコラ学に大きな影響を与えている。

数字の表記法(アラビア数字)、代数学、天文観測の技術、水車と灌漑、紙の製法、オレンジ・米・サトウキビの栽培なども、この地を経由してヨーロッパに入った。ヨーロッパのルネサンスは、アル・アンダルス経由で戻ってきた古典の知識に支えられた面がある。

アルハンブラ宮殿

アルハンブラ宮殿
アルハンブラ宮殿
ギターの名曲「アルハンブラ宮殿の思い出」で有名なアルハンブラ宮殿は、スペインのアンダルシア地方グラナダ県グラナダ市南東の丘の上にそびえ立つ。イベリア半島に移植したイスラムによって築かれた壮麗な宮殿だ。

1031年に後ウマイヤ朝が滅ぶと半島のイスラーム勢力は分裂し、キリスト教諸国によるレコンキスタ(国土回復運動)が本格化する。1085年にトレド、1236年にコルドバ、1248年にセビリアが陥落し、13世紀半ばには半島南端のグラナダを都とするナスル朝だけが残った。

そのナスル朝が、13世紀から14世紀にかけて丘の上の城塞を宮殿へと拡張したものがアルハンブラ宮殿である。「獅子の中庭 (ししのなかにわ) 」の細い列柱、壁面を覆うアラベスク (arabesque) 文様とクーフィー体の碑文、鍾乳石のようなムカルナス天井の装飾は、西方イスラーム建築の完成形とされる。1984年(昭和59年)、世界遺産に登録された。

共存から排除へ ― ムスリムと現地住民の800年

トレドの翻訳学校
ムスリム・キリスト教徒・ユダヤ教徒が机を並べた翻訳作業(イメージ)
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711年のイスラーム勢力の流入から1492年のグラナダ陥落、そして17世紀初頭の国外追放まで、イベリア半島のムスリムと現地のキリスト教徒・ユダヤ教徒の関係は、「共存」から「対立・排除」へと大きく変化した。
イスラーム支配下の時期、キリスト教徒とユダヤ教徒は「啓典の民」として扱われ、ジズヤ(人頭税)を納めれば信仰と生命・財産の安全を認められた。この地位をズィンミー(保護される民)という。対等ではなく、公職や服装、礼拝の音量などに制限はあったが、当時の西ヨーロッパで異教徒に与えられた扱いよりは安定していた。

イスラーム支配下でアラビア語と現地の生活様式を受け入れたキリスト教徒をモサラベと呼ぶ。この時期、3つの宗教の学者が同じ都市で著述し、互いの文献を読み合った。20世紀のスペインの歴史家アメリコ・カストロらは、この状態をコンビベンシア(convivencia=共生)と名づけた。

ただし、共存は常に安定していたわけではない。9世紀のコルドバでは殉教運動が起き、11世紀末に北アフリカから入ったムラービト朝ムワッヒド朝は他宗教への統制を強め、1066年のグラナダや1391年のセビリアではユダヤ人への集団的な襲撃が起きている。

レコンキスタが進むと立場は逆転する。キリスト教諸国の支配下に残ったムスリムはムデハルと呼ばれ、当初は信仰を認められて職人や農民として働き、その建築様式(ムデハル様式)はスペインの街並みに今も残る。しかし1492年にグラナダが陥落すると方針が変わり、同年にユダヤ教徒へ改宗か退去を命じる勅令が出され、1502年にはカスティーリャのムスリムにも改宗が強制された。

改宗したムスリムの子孫はモリスコと呼ばれた。表面上はキリスト教徒だが、異端審問の監視を受け、アラビア語や衣服・入浴の習慣まで禁じられていく。1568年にはグラナダで大規模な反乱(アルプハラスの反乱)が起き、鎮圧後に住民は各地へ強制移住させられた。

そして1609年、フェリペ3世が追放令を出し、1614年までに約30万人のモリスコが北アフリカなどへ退去させられた。900年に及んだイベリア半島のムスリム社会は、こうして終わる。追放は農業と手工業の担い手を失わせ、バレンシアやアラゴンの経済に長く打撃を残した。

参考サイト

この時代の世界

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