無難に (672) 乗り切る壬申の乱
壬申の乱で進軍する大海人皇子軍(イメージ)
AI生成コンテンツ / AI-generated contents
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天武天皇
翌673年、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で第40代天武天皇として即位しました。天武天皇と、その皇后で後を継いだ持統天皇は、皇族を政権の中心に置き、官位・氏姓・法令・戸籍・都城を整えました。壬申の乱は皇位の争いに決着をつけただけでなく、天皇を中心とする中央集権的な律令国家の形成を大きく加速させた内乱でした。
目次
兄弟継承の慣行と天智天皇の転換
天智天皇、大海人皇子、大友皇子(イメージ)
古代の皇位継承は、現代のような明文化された長子相続ではありませんでした。大王・天皇の死後、政治経験のある同世代の兄弟や皇后が継ぐ例が多く、舒明天皇の後も、皇極天皇、弟の孝徳天皇、重祚した斉明天皇へと皇位が移っています。このため、天智天皇の同母弟で、皇太弟とみなされていた大海人皇子は有力な継承候補でした。
一方、天智天皇は671年、第一皇子の大友皇子を太政大臣に任じ、政権の中心に据えました。これは、同じ世代の兄弟へ皇位を回す従来の傾向から、自分の子へ継がせる父子継承へ重心を移す動きでした。ただし、当時の継承原則は一つに定まっておらず、大友皇子の母の身分、各皇子の年齢・実績、豪族の支持なども絡みました。壬申の乱は「弟か子か」という対立だけでなく、近江朝廷の政策に対する地方豪族の反発を含む、複合的な権力闘争だったと考えられます。
大海人皇子、命がけの吉野退去
671年10月、病床の天智天皇は大海人皇子を呼び、後事を託そうとしました。『日本書紀』によれば、大海人皇子は天皇の真意を疑い、皇位を辞退して大友皇子を皇太子に立てるよう勧め、その場で出家を願い出ました。武器を返し、髪を剃って僧の姿となり、皇后の鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)や子ども、わずかな従者とともに近江大津宮を離れました。

これは隠居であると同時に、命を守るための撤退でした。大海人皇子の一行を見送った近江朝廷の人物が「虎に翼をつけて放したようなものだ」と語ったと『日本書紀』は伝えます。大海人皇子は吉野宮に入りましたが、近江朝廷は吉野を監視しました。672年5月、天智天皇陵造営の名目で美濃・尾張の人夫を集め、武器を持たせているとの情報が届きます。大海人皇子は、自分を攻める準備だと判断し、先手を取ることにしました。
これは隠居であると同時に、命を守るための撤退でした。大海人皇子の一行を見送った近江朝廷の人物が「虎に翼をつけて放したようなものだ」と語ったと『日本書紀』は伝えます。大海人皇子は吉野宮に入りましたが、近江朝廷は吉野を監視しました。672年5月、天智天皇陵造営の名目で美濃・尾張の人夫を集め、武器を持たせているとの情報が届きます。大海人皇子は、自分を攻める準備だと判断し、先手を取ることにしました。
吉野脱出と東国への電撃行軍
大海人皇子の吉野脱出と東国への行軍(イメージ)
大海人皇子は舎人の村国連男依らを先発させ、美濃で兵を集め、不破道を塞ぐよう命じました。自身は6月24日に二十数人ほどの一行で吉野を出発し、宇陀、伊賀、伊勢を昼夜兼行で進みました。途中で高市皇子や大津皇子と合流し、伊賀・伊勢・尾張・美濃などの豪族や国司の協力を得て軍勢を急速に膨らませます。
近江朝廷も東国・吉備・筑紫へ使者を送り、兵を集めようとしました。しかし、東国へ向かった使者は大海人皇子側に進路を押さえられ、吉備と筑紫でも十分な動員ができませんでした。大海人皇子は、近江朝廷が全国動員を終える前に交通の要衝と地方の兵力を奪ったのです。吉野脱出から短期間で攻守を逆転させた、電撃的な作戦でした。
不破道の確保と二つの前線
大海人皇子側は美濃の豪族の協力を得て、不破道を早い段階で封鎖しました。後世の三関の一つ「不破関」に当たる交通の要所ですが、672年の時点で後の関所施設が完成していたとは限らないため、厳密には「不破道を押さえた」と表現するのが適切です。大海人皇子は不破郡の野上に行宮を置きました。これが野上行宮であり、「不破宮」とも呼ばれます。

大海人皇子軍は、ここから近江方面と大和方面の二つの前線で戦いました。主力は村国連男依らに率いられ、不破から琵琶湖東岸を南下して大津宮を目指します。もう一方では、大伴連吹負が少数の兵で飛鳥古京を急襲して近江朝廷側の拠点を奪い、大和の豪族を味方につけました。大和方面では一時敗走する苦戦もありましたが、援軍を得て立て直し、近江朝廷軍を挟む形で圧力をかけました。
大海人皇子軍は、ここから近江方面と大和方面の二つの前線で戦いました。主力は村国連男依らに率いられ、不破から琵琶湖東岸を南下して大津宮を目指します。もう一方では、大伴連吹負が少数の兵で飛鳥古京を急襲して近江朝廷側の拠点を奪い、大和の豪族を味方につけました。大和方面では一時敗走する苦戦もありましたが、援軍を得て立て直し、近江朝廷軍を挟む形で圧力をかけました。
瀬田川の戦いと決着
瀬田川の戦い(イメージ)
近江方面の大海人皇子軍は、息長、鳥籠山、安河、栗太などの戦いで近江朝廷軍を破り、琵琶湖東岸を南下しました。7月22日、両軍は大津宮を目前にした瀬田川で激突します。近江朝廷軍は瀬田橋の西側に大軍を並べ、橋板の一部を外し、綱を切れば敵が落ちる仕掛けを設けて守りました。
『日本書紀』によれば、大海人皇子側の大分君稚臣が長い槍を持って橋を突破し、仕掛けの綱を切ったため、近江朝廷軍は崩れました。翌23日、大友皇子は逃げ場を失い、山前で自害しました。左右大臣らも自害または捕縛され、約1か月に及んだ壬申の乱は大海人皇子側の勝利で終わりました。ただし、戦闘の細部は勝者側の政権下で編纂された『日本書紀』によるため、英雄的な描写を含む可能性に注意が必要です。
天武天皇の即位と皇親政治
乱後、大海人皇子は飛鳥へ戻り、飛鳥浄御原宮を造営しました。翌673年2月、第40代天武天皇として即位します。近江朝廷に勝利したことで、特定の大豪族に擁立されたのではない強い王権を得ました。天武天皇は皇子や皇族を政権の要職に置く皇親政治を進め、天皇が自ら主導する政治体制を築きました。

壬申の乱で近江朝廷側の有力者が失脚したことも、天皇の権力を相対的に強めました。ただし、豪族を政治から完全に排除したのではありません。地方支配や実務には氏族の力が不可欠であり、天武天皇は豪族を新しい官位・氏姓秩序の中へ組み直して統制しました。皇親政治は、天皇・皇族を頂点に置きながら豪族を国家機構へ編成する過程でした。
壬申の乱で近江朝廷側の有力者が失脚したことも、天皇の権力を相対的に強めました。ただし、豪族を政治から完全に排除したのではありません。地方支配や実務には氏族の力が不可欠であり、天武天皇は豪族を新しい官位・氏姓秩序の中へ組み直して統制しました。皇親政治は、天皇・皇族を頂点に置きながら豪族を国家機構へ編成する過程でした。
天武・持統天皇の中央集権化政策
飛鳥浄御原宮の政務の場(イメージ)
天武天皇は、684年に八色の姓を定め、氏族を天皇との関係に応じた新しい序列へ再編しました。官人の位階を整え、豪族が私的に持つ武器を収めさせ、地方行政や軍事動員を朝廷の統制下に置こうとしました。また、律令の編纂、全国的な国史と皇室系譜の編纂、新都の造営を命じました。これらは法、官僚、歴史、都市を天皇中心に統合する政策でした。
天武天皇が686年に崩御すると、皇后の鸕野讃良皇女が政務を執り、690年に第41代持統天皇として即位しました。持統天皇は689年に飛鳥浄御原令を施行し、690年に庚寅年籍を作成して人民把握を進め、班田収授を実施しました。694年には条坊を備えた本格的な都城・藤原京へ遷都しました。

天武・持統朝の改革は、701年に文武天皇のもとで制定された大宝律令へ受け継がれました。壬申の乱の勝利によって生まれた強い王権が、皇親政治、氏族秩序、法令、戸籍、地方支配、都城を一体として整えたことで、中央集権的な律令国家の成立が加速したのです。
天武・持統朝の改革は、701年に文武天皇のもとで制定された大宝律令へ受け継がれました。壬申の乱の勝利によって生まれた強い王権が、皇親政治、氏族秩序、法令、戸籍、地方支配、都城を一体として整えたことで、中央集権的な律令国家の成立が加速したのです。
「日本」「天皇」号の成立
国号「日本」と君主号「天皇」も、7世紀後半から8世紀初めにかけて定着したと考えられています。それ以前、対外的には「倭」、国内の君主には「大王」などが使われました。天武・持統朝の国家形成の中で、天皇を中心とする統治理念と「日本」という国の枠組みが整えられ、701年の大宝律令や702年(大宝2年)の遣唐使の時期までには対外的にも明確になりました。

ただし、「天武天皇がある年に二つの名称を同時に制定した」と断定できる史料はありません。「天皇」号の使用開始を推古朝、天智朝、天武朝などとする説があり、「日本」号の成立時期にも議論があります。現在確認できる木簡や金石文、唐・新羅の史料を総合すると、両方が制度的に定着したのは天武・持統朝を中心とする7世紀後半とみるのが有力です。壬申の乱は、その新しい国家と君主の姿を形にする転換点になりました。

なお、645年、大化の改新から始まった元号制度は、650年(大化6年)に白雉へ改元された後、654年(白雉5年)の孝徳天皇崩御から長い空白期に入りました。天武天皇は686年7月(旧暦)に「朱鳥」を定めましたが、同年9月に崩御し、再び元号が途絶えます。元号が継続して用いられるようになるのは、701年の「大宝」以後です。
ただし、「天武天皇がある年に二つの名称を同時に制定した」と断定できる史料はありません。「天皇」号の使用開始を推古朝、天智朝、天武朝などとする説があり、「日本」号の成立時期にも議論があります。現在確認できる木簡や金石文、唐・新羅の史料を総合すると、両方が制度的に定着したのは天武・持統朝を中心とする7世紀後半とみるのが有力です。壬申の乱は、その新しい国家と君主の姿を形にする転換点になりました。
なお、645年、大化の改新から始まった元号制度は、650年(大化6年)に白雉へ改元された後、654年(白雉5年)の孝徳天皇崩御から長い空白期に入りました。天武天皇は686年7月(旧暦)に「朱鳥」を定めましたが、同年9月に崩御し、再び元号が途絶えます。元号が継続して用いられるようになるのは、701年の「大宝」以後です。
大友皇子から弘文天皇へ――後世の評価
大友皇子は壬申の乱で叔父の大海人皇子に敗れ、自害しました。720年(養老4年)に成立した『日本書紀』は、天智天皇の後を大友皇子が正式に即位したとは記さず、672年を天武天皇元年として扱っています。このため長い間、大友皇子は歴代天皇に数えられませんでした。

明治3年(1870年)、明治政府は大友皇子に「弘文天皇」という漢風諡号を贈り、第39代天皇として歴代天皇に加えました。これは同時代の新史料によって即位が証明されたというより、近江朝廷を率いて皇位を継いだ人物として、近代になって皇統の中に位置づけ直したものです。そのため現在も、実際に即位式を行ったのか、法的・儀礼的に天皇だったのかについては議論があります。

後世の評価では、大友皇子を単なる「敗者」と見るだけでは不十分です。若くして太政大臣となり、天智天皇の近江朝廷を担った政治家であり、漢詩集『懐風藻』には学識ある人物として詩が残ります。一方で、壬申の乱の記録は勝者である天武朝につながる『日本書紀』を中心としており、大友皇子側の事情は詳しく伝わりません。「弘文天皇」という追号は名誉回復であると同時に、各時代が皇位継承をどのように理解し直してきたかを示しています。
明治3年(1870年)、明治政府は大友皇子に「弘文天皇」という漢風諡号を贈り、第39代天皇として歴代天皇に加えました。これは同時代の新史料によって即位が証明されたというより、近江朝廷を率いて皇位を継いだ人物として、近代になって皇統の中に位置づけ直したものです。そのため現在も、実際に即位式を行ったのか、法的・儀礼的に天皇だったのかについては議論があります。
後世の評価では、大友皇子を単なる「敗者」と見るだけでは不十分です。若くして太政大臣となり、天智天皇の近江朝廷を担った政治家であり、漢詩集『懐風藻』には学識ある人物として詩が残ります。一方で、壬申の乱の記録は勝者である天武朝につながる『日本書紀』を中心としており、大友皇子側の事情は詳しく伝わりません。「弘文天皇」という追号は名誉回復であると同時に、各時代が皇位継承をどのように理解し直してきたかを示しています。
参考サイト
- 壬申の乱:奈良県立万葉文化館
- 壬申の乱:奈良県歴史文化資源データベース「いかす・なら」
- 壬申の乱と古代の伊賀・伊勢:三重県
- 藤原宮跡:奈良県
- 飛鳥浄御原宮:奈良県立万葉文化館
- 『日本書紀』の紀年と弘文天皇:国立国会図書館レファレンス協同データベース
- 壬申の乱:コトバンク
飛鳥浄御原宮付近の地図

この時代の世界
(この項おわり)

大海人皇子は吉野から伊賀・伊勢を経て美濃へ進み、東国の豪族と兵を味方につけました。不破道を押さえて近江朝廷が東国から援軍を得る道を断ち、近江方面と大和方面の二つの前線から攻め込みます。約1か月の戦いの末、瀬田川で近江朝廷軍を破り、大友皇子は自害しました。