文武王
西暦676年、第30代の王・文武王の治世、新羅は朝鮮半島の直接支配を図る唐の軍を退け、旧百済領と旧高句麗領南部を合わせた大同江以南の地域をほぼ統一した。一般に「新羅の三国統一」と呼ばれるが、高句麗の旧領北部まで含む半島全域を統一したわけではない。
羅唐同盟の結成
7世紀半ばの新羅は、西の百済と北の高句麗から圧迫されていた。新羅の王族・金春秋(のちの武烈王)は倭や高句麗との連携を模索したのち、648年に唐へ渡り、唐の太宗と軍事同盟を結んだ。新羅が半島で兵站と地上軍を担い、唐が大軍と水軍を送って百済・高句麗を挟撃する「羅唐同盟」である。
百済の滅亡と白村江の戦い
660年、唐の蘇定方が率いる水陸軍と新羅軍は百済を攻め、都の泗沘を陥落させた。百済滅亡後も遺臣たちは王子・扶余豊を迎えて復興運動を続け、倭国(日本)も援軍を送った。しかし663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍が倭国の水軍を破り、百済復興運動は終息した。
高句麗の滅亡
661年に武烈王が死去すると、子の文武王が即位した。唐と新羅は高句麗への攻撃を続けた。高句麗では実権者・淵蓋蘇文の死後に後継争いが起こり、国内が分裂した。668年、唐・新羅連合軍が平壌を攻略し、高句麗は滅亡した。
羅唐戦争と半島の統一
唐は旧百済領に熊津都督府、旧高句麗領に安東都護府を置いただけでなく、新羅にも鶏林州都督府を設け、朝鮮半島全体を唐の羈縻支配に組み込もうとした。新羅にとって、同盟による対外戦争は自国の存立をかけた唐との戦争へ転じた。

670年、新羅は高句麗・百済の遺民を取り込み、唐との戦い(羅唐戦争)を始めた。675年の買肖城の戦いで唐軍を破り、676年には錦江河口の伎伐浦で唐水軍を退けた。唐は安東都護府を遼東へ移し、新羅は大同江以南の支配を固めた。

新羅が大国・唐を退けられた理由は、唐が西方で吐蕃との戦争を抱え、朝鮮半島へ兵力を集中できなかったこと、遠距離遠征で補給が難しかったことに加え、新羅が地形を熟知していたこと、旧百済・高句麗の遺民を味方に組み入れたこと、要塞を利用して持久戦を展開したことにある。単独の決戦で唐を圧倒したのではなく、複数の条件を生かして唐に半島南部の維持を断念させたのである。
670年、新羅は高句麗・百済の遺民を取り込み、唐との戦い(羅唐戦争)を始めた。675年の買肖城の戦いで唐軍を破り、676年には錦江河口の伎伐浦で唐水軍を退けた。唐は安東都護府を遼東へ移し、新羅は大同江以南の支配を固めた。
新羅が大国・唐を退けられた理由は、唐が西方で吐蕃との戦争を抱え、朝鮮半島へ兵力を集中できなかったこと、遠距離遠征で補給が難しかったことに加え、新羅が地形を熟知していたこと、旧百済・高句麗の遺民を味方に組み入れたこと、要塞を利用して持久戦を展開したことにある。単独の決戦で唐を圧倒したのではなく、複数の条件を生かして唐に半島南部の維持を断念させたのである。
統一の歴史的意義と影響
三国が争い、唐や倭国も介入した「外征」の時代は終わり、半島南部では統一国家の内部における王権と貴族、地方勢力の対立、すなわち「内戦」へと争いの性格が移っていった。新羅は旧百済・高句麗の人々と領域を取り込み、中央集権的な統治制度の整備を進めた。

一方、高句麗の旧領北部では、高句麗の遺民である大祚栄が靺鞨の人々とともに勢力を築き、698年に渤海を建国した。このため7世紀末以後の朝鮮半島とその北方は、統一新羅と渤海が並び立つ「南北国」の時代として捉える見方もある。

統一後は、仏教を共通の基盤として新羅・百済・高句麗の技術や造形感覚が融合し、唐や西域の文化も取り入れた統一新羅独自の文化が開花した。その代表が、8世紀に造営された仏国寺と石窟庵である。三国統一は政治的な領域の再編にとどまらず、人・技術・信仰の交流を促し、後世の朝鮮文化の基礎を形づくった。

なお、新羅の建国に関する正確な資料は現存しておらず、史実性が高まるのは4世紀の第17代奈勿王以後である。
一方、高句麗の旧領北部では、高句麗の遺民である大祚栄が靺鞨の人々とともに勢力を築き、698年に渤海を建国した。このため7世紀末以後の朝鮮半島とその北方は、統一新羅と渤海が並び立つ「南北国」の時代として捉える見方もある。
統一後は、仏教を共通の基盤として新羅・百済・高句麗の技術や造形感覚が融合し、唐や西域の文化も取り入れた統一新羅独自の文化が開花した。その代表が、8世紀に造営された仏国寺と石窟庵である。三国統一は政治的な領域の再編にとどまらず、人・技術・信仰の交流を促し、後世の朝鮮文化の基礎を形づくった。
なお、新羅の建国に関する正確な資料は現存しておらず、史実性が高まるのは4世紀の第17代奈勿王以後である。
この時代の世界
(この項おわり)
