役小角 (イメージ)
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修験道(山伏)の開祖
山伏 (イメージ)
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その後、熊野や大峰山の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で蔵王権現(金剛蔵王大権現)を感得したという。この体験が修験道の出発点と位置づけられている。

修験道の特徴は、経典の学習よりも山中での実地の修行を重んじる点にある。
小角が開いたと伝わる大峯奥駈道や葛城二十八宿は、現在も修行の道として使われている。大峯奥駈道は2004年(平成16年)に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録された。

1799年(寛政11年)、没後1100年(康和2年)にあたり、光格天皇から「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」の諡号が贈られた。修験道の寺院で「南無神変大菩薩」と唱えるのは、この諡号による。
修験道の特徴は、経典の学習よりも山中での実地の修行を重んじる点にある。
小角が開いたと伝わる大峯奥駈道や葛城二十八宿は、現在も修行の道として使われている。大峯奥駈道は2004年(平成16年)に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録された。
1799年(寛政11年)、没後1100年(康和2年)にあたり、光格天皇から「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」の諡号が贈られた。修験道の寺院で「南無神変大菩薩」と唱えるのは、この諡号による。
鬼神を従えた呪術者伝説
『続日本紀』は、当時の世間の噂として「小角はよく鬼神を使役して水を汲ませ薪を採らせ、命令に従わないときは呪をもってこれを縛った」と書き留めている。正史がわざわざ噂を記すほど、小角は凄腕の呪術者として知られていた。
役行者の像では、左右に前鬼・後鬼という夫婦の鬼が付き従う。生駒山で小角に改心させられ、弟子になったと伝えられる。
役行者の像では、左右に前鬼・後鬼という夫婦の鬼が付き従う。生駒山で小角に改心させられ、弟子になったと伝えられる。
有名な伝説が、葛城山と金峯山の間に石橋を架けようとした話である。
小角は諸国の神々を動員して工事を進めようとしたが、葛城山の神一言主は自分の醜い容貌を恥じて夜しか働かなかった。怒った小角が神である一言主を呪縛して責め立てたところ、耐えかねた一言主は「小角が謀叛を企てている」と天皇に讒訴した。これが配流の原因になったという筋書きである。

この石橋伝説は、平安初期の仏教説話集『日本霊異記』(弘仁年間・810年(大同5年)~824年成立)上巻第28話に載る。同書によれば、小角は朝廷の使者に捕らえられなかったが、母を人質にとられて自ら縛につき、伊豆大島へ流された。

配流後の伝説も派手である。
小角は諸国の神々を動員して工事を進めようとしたが、葛城山の神一言主は自分の醜い容貌を恥じて夜しか働かなかった。怒った小角が神である一言主を呪縛して責め立てたところ、耐えかねた一言主は「小角が謀叛を企てている」と天皇に讒訴した。これが配流の原因になったという筋書きである。
この石橋伝説は、平安初期の仏教説話集『日本霊異記』(弘仁年間・810年(大同5年)~824年成立)上巻第28話に載る。同書によれば、小角は朝廷の使者に捕らえられなかったが、母を人質にとられて自ら縛につき、伊豆大島へ流された。
配流後の伝説も派手である。
- 昼は伊豆大島にいて、夜になると海の上を渡り富士山へ登って修行した
- 伊豆山(現在の静岡県熱海市)で修行し、走り湯を発見した
- 唐へ渡る途中の僧道昭が新羅の山中で500頭の虎に法華経を講じたとき、聴衆の中にいて日本語で質問した
- 701年に大赦で許され、故郷に戻ったのち、仙人となって天に飛び去った
『続日本紀』が伝える史実
伊豆大島への配流 (イメージ)
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役小角について信頼できる同時代の記録は、正史『続日本紀』巻第一・文武天皇3年5月24日条のわずか1条だけである。ユリウス暦では699年6月26日にあたる。
原文は次のとおりである。
「丁丑。役君小角流于伊豆島。初小角住於葛木山。以咒術稱。外從五位下韓國連廣足師焉。後害其能。讒以妖惑。故配遠處。」
原文は次のとおりである。
「丁丑。役君小角流于伊豆島。初小角住於葛木山。以咒術稱。外從五位下韓國連廣足師焉。後害其能。讒以妖惑。故配遠處。」
現代語にすると、おおむね次の内容になる。

告発者の韓国広足は実在の官人である。呪禁の術で朝廷に仕え、732年(天平4年)には医療と呪禁を司る典薬寮の長官・典薬頭に任じられた。氏の名から渡来人と誤解されやすいが、韓国氏は物部氏の支族である。

配流先の「伊豆島」は伊豆大島と考えられている。東京都大島町泉津地区には、東京都の旧跡に指定された「役行者窟」が残り、前面の海岸は行者浜と呼ばれている。
701年(大宝元年)正月の大赦で許され、同年6月7日、大阪府箕面市の天上ヶ岳(標高499m)で入寂したと伝わる。享年68。ふもとの瀧安寺は、この山を奥の院とする。

なお、生没年は不詳で、実在は認められるものの生涯の大半は後世の伝承による。中世、とくに室町時代になると金峯山や熊野の各霊場で『役行者本記』などの伝記が作られ、『続日本紀』の記述をはるかに超える詳細な行状が語られるようになった。
- 役君小角を伊豆島に流した
- 小角ははじめ葛城山に住み、呪術で称賛されていた
- 韓国広足は小角を師と仰いでいた
- のちに広足はその能力をねたみ、「妖術で人を惑わす」と讒言した
- そのため小角は遠地に配された
告発者の韓国広足は実在の官人である。呪禁の術で朝廷に仕え、732年(天平4年)には医療と呪禁を司る典薬寮の長官・典薬頭に任じられた。氏の名から渡来人と誤解されやすいが、韓国氏は物部氏の支族である。
配流先の「伊豆島」は伊豆大島と考えられている。東京都大島町泉津地区には、東京都の旧跡に指定された「役行者窟」が残り、前面の海岸は行者浜と呼ばれている。
701年(大宝元年)正月の大赦で許され、同年6月7日、大阪府箕面市の天上ヶ岳(標高499m)で入寂したと伝わる。享年68。ふもとの瀧安寺は、この山を奥の院とする。
なお、生没年は不詳で、実在は認められるものの生涯の大半は後世の伝承による。中世、とくに室町時代になると金峯山や熊野の各霊場で『役行者本記』などの伝記が作られ、『続日本紀』の記述をはるかに超える詳細な行状が語られるようになった。
役行者像のビジュアル的特徴
役行者像の特徴
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修験道の寺院に祀られる役行者像には、決まった型がある。ひと目で役行者と分かる要素は次のとおりである。
- 老人の姿で、長い髭をたくわえる
- 岩座(自然の岩)の上に座る
- 頭に頭巾(脛巾頭巾)をかぶる
- 一本歯の高下駄を履く
- 右手に巻物、左手に錫杖を持つ
一本歯の高下駄は、険しい山道を歩く修行を象徴する道具で、役行者像を他の高僧像と区別する最大の目印である。仏像が通常は若々しい理想的な姿で表されるのに対し、役行者があえて老人の姿で造られるのは、長い修行を積んだ人間としての性格を示すためと考えられている。

足元には前鬼・後鬼が配される。一般に、

持ち物は寺院や宗派によって差があり、錫杖の代わりに密教法具を持つ像もある。彫像のほか、絵巻や御札(おふだ)の図像としても広く流布した。アメリカのキンベル美術館など、海外の美術館が所蔵する作例もある。
足元には前鬼・後鬼が配される。一般に、
- 前鬼:赤い肌、斧を持つ(男)
- 後鬼:青い肌、水瓶を持つ(女)
持ち物は寺院や宗派によって差があり、錫杖の代わりに密教法具を持つ像もある。彫像のほか、絵巻や御札(おふだ)の図像としても広く流布した。アメリカのキンベル美術館など、海外の美術館が所蔵する作例もある。
参考サイト
- 西暦672年 - 壬申の乱:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦694年 - 藤原京に遷都:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦701年 - 大宝律令が完成:ぱふぅ家のホームページ
- 役行者御誕生所 吉祥草寺
- 本山修験宗総本山 聖護院門跡
- 金峯山寺
この時代の世界
(この項おわり)

正史『続日本紀』は、小角が葛城山に住んで呪術で名を知られ、弟子であった韓国広足がその能力をねたみ、人々を惑わす妖術を使うと讒言したため遠地に配された、と記す。
小角は修験道の開祖とされ、鬼神を使役したという伝説とともに語り継がれてきた。