西暦699年 - 役小角が流刑に

伝説の人物、修験道の基礎を築く
役小角 - 修験道の開祖
役小角 (イメージ)
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西暦699年(文武天皇3年)5月24日、役小角 (えんのおづぬ) 役行者 (えんのぎょうじゃ) )が伊豆大島へ流罪となった。
正史『続日本紀』は、小角が葛城山に住んで呪術で名を知られ、弟子であった韓国広足 (からくにのひろたり) がその能力をねたみ、人々を惑わす妖術を使うと讒言したため遠地に配された、と記す。
小角は修験道の開祖とされ、鬼神を使役したという伝説とともに語り継がれてきた。

目次

修験道(山伏)の開祖

山伏 - 修験道
山伏 (イメージ)
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役小角は、日本古来の山岳信仰に仏教や道教の要素が重なって生まれた修験道の開祖とされる。
634年(舒明天皇6年)、大和国葛上郡茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれたと伝わる。生誕地には吉祥草寺が建つ。
17歳で元興寺(飛鳥寺)に入って孔雀明王の呪法を学び、葛城山(現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を始めた。
その後、熊野や大峰山の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で蔵王権現 (ざおうごんげん) (金剛蔵王大権現)を感得したという。この体験が修験道の出発点と位置づけられている。

修験道の特徴は、経典の学習よりも山中での実地の修行を重んじる点にある。
  • 険しい山を歩き通すこと自体を修行とする
  • 神仏習合の色が濃く、神も仏も併せて祀る
  • 修行者は山伏 (やまぶし) 修験者 (しゅげんじゃ) と呼ばれる
小角が開いたと伝わる大峯奥駈道や葛城二十八宿は、現在も修行の道として使われている。大峯奥駈道は2004年(平成16年)に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録された。

1799年(寛政11年)、没後1100年(康和2年)にあたり、光格天皇から「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」の諡号 (しごう) が贈られた。修験道の寺院で「南無神変大菩薩」と唱えるのは、この諡号による。

鬼神を従えた呪術者伝説

『続日本紀』は、当時の世間の噂として「小角はよく鬼神を使役して水を汲ませ薪を採らせ、命令に従わないときは呪をもってこれを縛った」と書き留めている。正史がわざわざ噂を記すほど、小角は凄腕の呪術者として知られていた。
役行者の像では、左右に前鬼 (ぜんき) 後鬼 (ごき) という夫婦の鬼が付き従う。生駒山で小角に改心させられ、弟子になったと伝えられる。
有名な伝説が、葛城山と金峯山の間に石橋を架けようとした話である。
小角は諸国の神々を動員して工事を進めようとしたが、葛城山の神一言主 (ひとことぬし) は自分の醜い容貌を恥じて夜しか働かなかった。怒った小角が神である一言主を呪縛して責め立てたところ、耐えかねた一言主は「小角が謀叛を企てている」と天皇に讒訴した。これが配流の原因になったという筋書きである。

この石橋伝説は、平安初期の仏教説話集『日本霊異記』(弘仁年間・810年(大同5年)~824年成立)上巻第28話に載る。同書によれば、小角は朝廷の使者に捕らえられなかったが、母を人質にとられて自ら縛につき、伊豆大島へ流された。

配流後の伝説も派手である。
  • 昼は伊豆大島にいて、夜になると海の上を渡り富士山へ登って修行した
  • 伊豆山(現在の静岡県熱海市)で修行し、走り湯を発見した
  • 唐へ渡る途中の僧道昭 (どうしょう) が新羅の山中で500頭の虎に法華経を講じたとき、聴衆の中にいて日本語で質問した
  • 701年に大赦で許され、故郷に戻ったのち、仙人となって天に飛び去った
史実というより、山を舞台に空間を自在に越える修行者像を語った物語と見るのが妥当である。

『続日本紀』が伝える史実

伊豆大島への配流 - 役小角
伊豆大島への配流 (イメージ)
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役小角について信頼できる同時代の記録は、正史『続日本紀』巻第一・文武天皇3年5月24日条のわずか1条だけである。ユリウス暦では699年6月26日にあたる。
原文は次のとおりである。
「丁丑。役君小角流于伊豆島。初小角住於葛木山。以咒術稱。外從五位下韓國連廣足師焉。後害其能。讒以妖惑。故配遠處。」
現代語にすると、おおむね次の内容になる。
  • 役君小角を伊豆島に流した
  • 小角ははじめ葛城山に住み、呪術で称賛されていた
  • 韓国広足 (からくにのひろたり) は小角を師と仰いでいた
  • のちに広足はその能力をねたみ、「妖術で人を惑わす」と讒言した
  • そのため小角は遠地に配された
つまり弟子による密告が配流の直接の原因だった、というのが正史の伝える筋である。一言主が訴えたとする話は『日本霊異記』以降の説話であり、正史には出てこない。

告発者の韓国広足は実在の官人である。呪禁 (じゅごん) の術で朝廷に仕え、732年(天平4年)には医療と呪禁を司る典薬寮の長官・典薬頭に任じられた。氏の名から渡来人と誤解されやすいが、韓国氏は物部氏の支族である。

配流先の「伊豆島」は伊豆大島と考えられている。東京都大島町泉津地区には、東京都の旧跡に指定された「役行者窟」が残り、前面の海岸は行者浜と呼ばれている。
701年(大宝元年)正月の大赦で許され、同年6月7日、大阪府箕面市の天上ヶ岳(標高499m)で入寂したと伝わる。享年68。ふもとの瀧安寺は、この山を奥の院とする。

なお、生没年は不詳で、実在は認められるものの生涯の大半は後世の伝承による。中世、とくに室町時代になると金峯山や熊野の各霊場で『役行者本記』などの伝記が作られ、『続日本紀』の記述をはるかに超える詳細な行状が語られるようになった。

役行者像のビジュアル的特徴

役行者像の特徴 - 一本歯の高下駄と錫杖
役行者像の特徴
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修験道の寺院に祀られる役行者像には、決まった型がある。ひと目で役行者と分かる要素は次のとおりである。
  • 老人の姿で、長い髭をたくわえる
  • 岩座(自然の岩)の上に座る
  • 頭に頭巾 (ときん) (脛巾頭巾)をかぶる
  • 一本歯の高下駄を履く
  • 右手に巻物、左手に錫杖 (しゃくじょう) を持つ
一本歯の高下駄は、険しい山道を歩く修行を象徴する道具で、役行者像を他の高僧像と区別する最大の目印である。仏像が通常は若々しい理想的な姿で表されるのに対し、役行者があえて老人の姿で造られるのは、長い修行を積んだ人間としての性格を示すためと考えられている。

足元には前鬼・後鬼が配される。一般に、
  • 前鬼:赤い肌、斧を持つ(男)
  • 後鬼:青い肌、水瓶を持つ(女)
として描き分けられる。斧は道を開くこと、水瓶は修行に必要な水を表す。

持ち物は寺院や宗派によって差があり、錫杖の代わりに密教法具を持つ像もある。彫像のほか、絵巻や御札(おふだ)の図像としても広く流布した。アメリカのキンベル美術館など、海外の美術館が所蔵する作例もある。

参考サイト

この時代の世界

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