則天武后
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目次
皇后位の奪取と反対勢力の粛清
皇后に冊立される武照(イメージ)
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則天武后の本名は武照(武曌)という。14歳で太宗の才人として後宮に入り、太宗が没すると慣例により感業寺で尼となった。しかし、第3代皇帝・高宗に呼び戻されて後宮に復帰し、昭儀の位を得る。
当時の後宮では、子に恵まれない王皇后と、高宗の寵愛を受ける蕭淑妃が対立していた。武照は両者の争いに乗じて高宗の信任を集め、655年、王皇后は武照の娘を殺したという嫌疑と媚蠱(まじない)の悪評によって廃后となる。同年、武照は皇后に立てられ、王皇后と蕭淑妃は処刑された。

立后には、太宗以来の重臣が強く反対した。褚遂良は面と向かって諫めて左遷され、657年には謀反を誣告されてさらに遠地へ追われる。太宗の義弟で関隴貴族集団の中心だった長孫無忌も、659年に謀反の疑いをかけられて流罪となり、自殺に追い込まれた。武照の立后に「これは陛下の家庭のことです」と述べて容認した李勣の態度は、後世の史家から批判されている。

660年ごろから高宗が眼病と風疾に苦しむようになると、武后が政務を代行するようになり、両者は「二聖」と呼ばれた。683年に高宗が没すると、武后は子の中宗を即位させたが、中宗が皇后の一族を重用しようとしたため、わずか2か月足らずで廃位し、弟の睿宗を立てて自らが実権を握った。

684年、これに反発した李敬業(徐敬業)が揚州で挙兵する。詩人の駱賓王が書いた武后弾劾の檄文は名文として知られるが、反乱は約3か月で鎮圧された。688年には唐の宗室である李氏の諸王が各地で挙兵し、これも鎮圧されて一族の多くが処刑された。反対勢力を失った武后は、690年、睿宗を退位させて自ら即位し、聖神皇帝と称して国号を周(武周)と改めた。
立后には、太宗以来の重臣が強く反対した。褚遂良は面と向かって諫めて左遷され、657年には謀反を誣告されてさらに遠地へ追われる。太宗の義弟で関隴貴族集団の中心だった長孫無忌も、659年に謀反の疑いをかけられて流罪となり、自殺に追い込まれた。武照の立后に「これは陛下の家庭のことです」と述べて容認した李勣の態度は、後世の史家から批判されている。
660年ごろから高宗が眼病と風疾に苦しむようになると、武后が政務を代行するようになり、両者は「二聖」と呼ばれた。683年に高宗が没すると、武后は子の中宗を即位させたが、中宗が皇后の一族を重用しようとしたため、わずか2か月足らずで廃位し、弟の睿宗を立てて自らが実権を握った。
684年、これに反発した李敬業(徐敬業)が揚州で挙兵する。詩人の駱賓王が書いた武后弾劾の檄文は名文として知られるが、反乱は約3か月で鎮圧された。688年には唐の宗室である李氏の諸王が各地で挙兵し、これも鎮圧されて一族の多くが処刑された。反対勢力を失った武后は、690年、睿宗を退位させて自ら即位し、聖神皇帝と称して国号を周(武周)と改めた。
密告政治と恐怖政治
宮城前に置かれた銅匭(イメージ)
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686年、武后は銅匭と呼ばれる4色の銅製投書箱をつくらせ、洛陽の宮城前に設置した。表向きは広く意見や訴えを受け付ける制度だが、実際には身分を問わず誰でも密告できる仕組みとして機能した。地方から密告に上京する者には駅伝の利用と食事が与えられ、内容が虚偽でも罰せられなかった。
密告を裁いたのが、索元礼、周興、来俊臣、侯思止といった酷吏たちである。彼らは告発された者を専用の獄に投じ、自白するまで拷問を加えた。来俊臣は数百人の無頼を集めて組織的な告発を行い、罪名の作り方をまとめた『羅織経』を編ませたと伝えられる。

周興が拷問の方法を問われて「大甕を火であぶり、その中に容疑者を入れればよい」と答えたところ、来俊臣がその甕を用意して「では、あなたが入りなさい」と迫った、という故事が『資治通鑑』に見える。ここから「請君入甕」という成語が生まれた。密告と拷問が、告発者自身にも向けられる制度だったことを示している。

当時、麟台正字の職にあった詩人陳子昂は「各地から密告が寄せられ、囚人は数百から千に及ぶが、取り調べてみればほとんど事実がない。一人が訴えられると百人が獄を満たす」と述べて、この状況を批判した。恐怖政治は、武后が反対勢力を排除して権力を固める間の手段であり、体制が安定した697年に来俊臣が処刑されると急速に終息した。
周興が拷問の方法を問われて「大甕を火であぶり、その中に容疑者を入れればよい」と答えたところ、来俊臣がその甕を用意して「では、あなたが入りなさい」と迫った、という故事が『資治通鑑』に見える。ここから「請君入甕」という成語が生まれた。密告と拷問が、告発者自身にも向けられる制度だったことを示している。
当時、麟台正字の職にあった詩人陳子昂は「各地から密告が寄せられ、囚人は数百から千に及ぶが、取り調べてみればほとんど事実がない。一人が訴えられると百人が獄を満たす」と述べて、この状況を批判した。恐怖政治は、武后が反対勢力を排除して権力を固める間の手段であり、体制が安定した697年に来俊臣が処刑されると急速に終息した。
官僚登用改革 ― 科挙の重視と新興勢力の育成
科挙の試験に臨む受験者(イメージ)
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科挙そのものは隋の文帝が始め、唐でも続けられていた。しかし唐の前半では、科挙で登用されるのは下級官吏が中心で、宰相など中枢の地位は北朝以来の関隴貴族や山東の名門が独占していた。武后は、この門閥に対抗するため、科挙出身者の登用を大幅に広げた。
武后は、詩文と時事論策を課す進士科を重んじ、合格者を要職に就けた。690年には洛陽の洛成殿で自ら受験者に策問を出したと伝えられ、これが後の殿試(皇帝みずからが行う最終試験)の先例とされる。702年には、騎射や武芸、体力を試す武挙を設け、武官についても家柄によらない登用の道を開いた。

あわせて、自分から官職を求めて申し出る自挙(自薦)を認め、まず仮の官として採用して実績を見る試官の制度も用いた。人材の裾野を広げる一方、任命が乱発されて官の質が下がったという批判もあり、無能な者はすぐに罷免された。

この改革によって、山東や江南の中小地主層から新しい官僚層が生まれ、関隴貴族の政治的な力は弱まった。武后が抜擢した狄仁傑、姚崇、宋璟、張柬之らは、いずれも後の唐の政治を担う人物である。とくに狄仁傑は、武后が自分より年下でありながら「国老」と呼んで敬い、その進言の多くを受け入れたと伝えられる。門閥に代わって科挙官僚が政治の中心となる流れは、この時期に大きく前進した。
あわせて、自分から官職を求めて申し出る自挙(自薦)を認め、まず仮の官として採用して実績を見る試官の制度も用いた。人材の裾野を広げる一方、任命が乱発されて官の質が下がったという批判もあり、無能な者はすぐに罷免された。
この改革によって、山東や江南の中小地主層から新しい官僚層が生まれ、関隴貴族の政治的な力は弱まった。武后が抜擢した狄仁傑、姚崇、宋璟、張柬之らは、いずれも後の唐の政治を担う人物である。とくに狄仁傑は、武后が自分より年下でありながら「国老」と呼んで敬い、その進言の多くを受け入れたと伝えられる。門閥に代わって科挙官僚が政治の中心となる流れは、この時期に大きく前進した。
仏教の擁護と正統性の主張
弥勒の下生を称する則天武后(イメージ)
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唐の皇室である李氏は、道教の始祖とされる老子(李耳)を祖先と称し、道教を仏教より上位に置いていた。李氏でも男子でもない武后が帝位に就くには、別の正統性の根拠が必要となる。武后が選んだのが仏教、とくに弥勒信仰であった。
689年から690年にかけて、武后の寵僧薛懐義と洛陽の僧・法明ら9人が、北涼の曇無讖訳『大雲経』に付会した注釈書『大雲経疏』をつくった。そこには「武后は弥勒仏の下生であり、唐に代わって帝位に就くべき者である」という趣旨の讖文が記されていた。武后はこれを全国に頒布し、諸州に大雲寺を建てさせて、即位の根拠とした。

即位の翌691年、武后は仏教を道教の上に置くことを詔で定めた。首都機能を長安から洛陽に移して神都と改称し、宮城内に明堂(万象神宮)と天堂という巨大な木造建築を造営して、政治と祭祀の中心とした。龍門石窟の奉先寺盧舎那仏も、武后が化粧料である脂粉銭を寄進して造られたと碑文に記されている。

仏教擁護は権力の道具にとどまらなかった。武后はコータン出身の僧実叉難陀を招いて『華厳経』を新たに訳させ(80巻本華厳経)、法蔵を保護して華厳宗の成立を支えた。義浄や菩提流志による訳経も進み、中国仏教の教学は大きく発展した。また、「曌」など十数字の則天文字を制定し、新王朝の権威を文字の面からも示そうとした。
即位の翌691年、武后は仏教を道教の上に置くことを詔で定めた。首都機能を長安から洛陽に移して神都と改称し、宮城内に明堂(万象神宮)と天堂という巨大な木造建築を造営して、政治と祭祀の中心とした。龍門石窟の奉先寺盧舎那仏も、武后が化粧料である脂粉銭を寄進して造られたと碑文に記されている。
仏教擁護は権力の道具にとどまらなかった。武后はコータン出身の僧実叉難陀を招いて『華厳経』を新たに訳させ(80巻本華厳経)、法蔵を保護して華厳宗の成立を支えた。義浄や菩提流志による訳経も進み、中国仏教の教学は大きく発展した。また、「曌」など十数字の則天文字を制定し、新王朝の権威を文字の面からも示そうとした。
則天武后の死後 ― 韋后の乱と玄宗の登場
705年、病床の武后に対して宰相の張柬之らがクーデターを起こし、中宗が帝位に戻って国号は唐に戻った。武后は同年末に没し、遺言により皇后として高宗と合葬された。

しかし今度は、中宗の皇后、韋后が第二の則天武后になろうとして中宗を毒殺し、政治は混乱する。この混乱を収めたのが、睿宗の子で第6代皇帝となった玄宗である。玄宗は710年に韋后の一族を討ち、712年に即位して、後に開元の治と呼ばれる唐の最盛期を築いた。
しかし今度は、中宗の皇后、韋后が第二の則天武后になろうとして中宗を毒殺し、政治は混乱する。この混乱を収めたのが、睿宗の子で第6代皇帝となった玄宗である。玄宗は710年に韋后の一族を討ち、712年に即位して、後に開元の治と呼ばれる唐の最盛期を築いた。
後世の評価
乾陵に立つ無字碑(イメージ)
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儒教の立場に立つ後世の史書は、武后への評価が厳しい。『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』はいずれも、女性が帝位を簒奪し、実子を廃し、酷吏を用いて臣下を殺した点を強く非難している。武后を「則天武后」と皇后の呼称で記すのも、その一つの表れである。
その一方で、統治の実績を評価する見方も古くからある。武后の治世には大きな農民反乱が起きておらず、均田制と租庸調を柱とする律令体制はおおむね維持され、戸数は高宗の時代から増加した。太宗の貞観の治の政治のあり方を受け継いだという意味で、「貞観の遺風」と評されることもある。

とくに重要なのが人材の面である。武后が抜擢した狄仁傑、姚崇、宋璟らは、玄宗の治世に宰相として政治を支え、開元の治を実現する中心となった。恐怖政治と有能な人材の登用が同じ時期に並存していた点が、この時代を評価しにくくしている。

20世紀以降の歴史学では、武后の時代を、北朝以来の門閥貴族が力を失い、科挙による官僚制へ移っていく転換点として位置づける見方が有力になっている。この変化は、宋代の士大夫官僚政治につながる長期的な流れの一部として捉えられている。

陝西省の乾陵にある武后の墓前には、何も刻まれていない無字碑が立っている。武后自身が「自分の功罪は後世が決めよ」と遺言したためだとする伝承があるが、確かな根拠はない。いずれにせよ、評価が定まらないまま議論が続いてきたこの人物を象徴する碑となっている。
とくに重要なのが人材の面である。武后が抜擢した狄仁傑、姚崇、宋璟らは、玄宗の治世に宰相として政治を支え、開元の治を実現する中心となった。恐怖政治と有能な人材の登用が同じ時期に並存していた点が、この時代を評価しにくくしている。
20世紀以降の歴史学では、武后の時代を、北朝以来の門閥貴族が力を失い、科挙による官僚制へ移っていく転換点として位置づける見方が有力になっている。この変化は、宋代の士大夫官僚政治につながる長期的な流れの一部として捉えられている。
陝西省の乾陵にある武后の墓前には、何も刻まれていない無字碑が立っている。武后自身が「自分の功罪は後世が決めよ」と遺言したためだとする伝承があるが、確かな根拠はない。いずれにせよ、評価が定まらないまま議論が続いてきたこの人物を象徴する碑となっている。
参考サイト
- 則天武后:世界史の窓
- 則天武后:コトバンク
- 大雲経:コトバンク
- 科挙:世界史の窓
- 則天武后と三教:岸田知子/待兼山論叢 哲学篇
- 則天武后時代の密教:長部和雄/密教文化
- 西暦645年 - 玄奘が唐に帰国:ぱふぅ家のホームページ
- 西暦755年 - 安史の乱:ぱふぅ家のホームページ
この時代の世界
(この項おわり)

則天武后は国号を周とあらため、対抗勢力を弾圧する恐怖政治を行った。その一方、科挙によって人材を登用するなど、合理的な政治も行った。